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トップガン・マーベリック

『トップガン・マーベリック』(2022)

2022年の映画興行収入でも堂々の第3位に入るこの映画。
2022年の末にようやく鑑賞することができた。
前の記事の『レディ・プレイヤー1』でも書いたように、この映画をノスタルジーの観点から語ることもできるのだろうが、
前作の『トップガン』にあったストーリー要素をうまく『マーベリック』に取り入れながら、大きな主題を描いていることの方に目がいった。

その主題とは、「父的なものの喪失と向き合う物語」
と言えるかもしれない。

『マーベリック』では、濃縮ウランを運び込んでいる「敵」がいるのだが、これがどこの国なのか、どこの組織なのかも全く明かされないというのがすごい。物語の登場人物たちが、自分たちの攻撃対象を「敵」としか言わない。吹き替えで観てたから?
登場人物の一人が、
「地獄を見せてやれ!」
とか言うのだけど、観ているこちらとしては
「だから誰によ?」
という疑問が最後まで晴れることはなかった。これは、全世界での興行を配慮しての設定なのかもしれないが、その奇妙な設定が、敵との対立構造を排除し、逆にトム・クルーズの内的象徴としての物語に見えてくる。そして露わになるのが「父的なものの喪失」だ。

そもそも私はトム・クルーズが父を演じている作品を知らない。
スターで多くの作品に出ているのだから、間違いなくあるのだろうけれど、私が観てきた作品の中で、トム・クルーズはスパイだったり、殺し屋だったり、セックスの伝道師だったり、幕末の日本にやってきたりしているが、父親のトム・クルーズが思い出せない。あ、『宇宙戦争』の時はそうだったかな?でも、宇宙戦争なので、宇宙人から逃げ回ることがメインで、「父」というものを演じていた印象がない。プライベートはともかくとして、人はトム・クルーズに父を求めないのかもしれない。

 『マーベリック』の中でも、トムは父ではない。『トップガン』の時と同じ、いちパイロットとして登場する。そんなトムが、トップガンで極秘任務のために若いエースパイロットたちの教官になり指導することになるというのが物語の骨子。教官と生徒という関係性の中で、トムが疑似的にでも「父」になる話なのかと思ったが、ストーリーはそうは進まなかった。
 一向にトムは若者を導けない。トムのパイロット技術は神業なのだが、その技術まで「子ども」である生徒たちを引き上げられない。最終的に、
「俺がやるしかない」
と言わんばかりに、トムは教官として生徒たちに作戦を託さず、「編隊長」として、一緒に作戦に参加することになる。つまり、トムが子どもたちの位置まで降りてくるのである。やっぱり、トムは「父」になることはできなかった。

 その変わりといっては何だが、物語の中で「父」として機能するのは、
「トップガン」でトムのバディで、物語の途中で死んでしまった「グース」だ。『マーベリック』に出てくる生徒の中には、このグースの息子がおり、この息子とトムの確執と和解も映画の見どころの一つとなっている。トムは、このグースの息子との対話の中で、グースと対話し、戦闘中にはグースの息子を助け、さらに逆にグースの息子に助けられる。完全にわだかまりが解けた二人は、『トップガン』時代の使用機F14に、グースの位置に息子を乗せて、敵と戦うことになる。
 そう、つまりこれはこう表現できる。

「不在であった父の座に、グースが現れる物語」

である、と。
ラストシーンは、『トップガン』のラストを忠実になぞる。『トップガン』でトムのライバルだった「アイスマン」を生き写したかのようなツンデレキャラクターである「ハングマン」が『マーベリック』にはいて(ちなみに、子どもの頃から私はツンデレアイスマンが最後にデレるところが最も好きであった)、名前からしても、この『マーベリック』のラストシーンありきで作られたキャラクターのように思う。このアイスマンは『トップガン』ではトムと握手をするのだが、『マーベリック』ではグースの息子と握手をする。

この時、『トップガン』の時代に父は失われてしまったけれど、
『マーベリック』によって、父の復活の希望を描く

 そんな主題がクリアになる。確かに、この30年で我々は父を失ったと感じる。ここでいう「父」とは、現実的な父親のことではもちろんなく、社会的に従うべき、道筋を照らし出してくれるような、道徳や倫理を説く何かを指す。アメリカにおいては、この問題はより深刻なのではないだろうか。世界の警察として、世界の父として、導き手としてのナショナルアイデンティティを、徐々に失っていったのが、『トップガン』から『マーベリック』までの30年と言っても良いのかもしれない。
 
 


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