小説無題#2タクシーに揺られながら

外は、冬特有のどんよりした曇り空が広がっていた。雲が薄く伸びて太陽をさえぎり、灰色の街はより灰色の街として此処に存在している。柳にはそれがこの世の出来事であるのかさえ分からなかった。時折り聞こえる鳥の鳴き声だけが柳の心を和らげてくれた。世界はそうやって均衡を保っているのかも知れない。
 東京高等裁判所を後にして、柳は奥村弁護士と共にタクシーに乗り込んだ。保釈されて以降、柳は人混みを避ける様になっていた。それはもちろんこの一件が原因だった。マスコミで取り上げられてから少なからず世間の関心を呼び、記者や野次馬に追われる事となった。奥村弁護士のもとへも脅迫状が届いた。柳はその事について申訳無く思っていたが、彼はそんな事を気にしたら弁護士は務まらないと一蹴してくれた。
「柳さん、今回の裁判の結果は本当に申し訳無いです。僕は今でも無罪だと信じています」
 奥村はそう言うと柳に体の正面を向けた。丁度タクシーの後部座席で膝と膝がくっ付くかの様な格好だ。そしてこう続けた。
「改めて次の控訴に向けて準備を進めます」
 だが柳は全く表情を変えなかった。
「いえ大丈夫です。奥村さんは感謝しか有りません。今まで本当にお世話になりました」
 奥村弁護士は驚いた顔をした。
「まさか上告しないんですか?」
 柳は力無く天井を見上げた。車の芳香剤は不快な香りを放っている。
「正直何のために裁判を続けるのか分からなくなってしまったんです。俺は今まで何をしていたんだろうなって」
「この裁判を頑張らないとあなたの理想は実現しません。今が踏ん張り時です」
 奥村弁護士と柳は、とある講演会で席を隣りにして以降親交を深めてきた。今回の弁護を奥村が請け負ったのもその個人的な繋がりからだった。だがもう潮時かも知れない。
「最近こんな夢を見るんです。俺は誰も居ない荒野に立って何かを叫んでた。でも誰も居ないから声が届かない。そうすると上から巨大な手が伸びて来て俺は押し潰される。その力は余りにも強くて抗う事は絶対に出来ない。……その掌からは血の匂いがしているんだ。それはこれまで立ち上がる人々を潰して来た事を示唆していた」
 奥村は考え込む様に顎に手を添えた。
「それは恐ろしい夢ですね」奥村の瞳孔は開かれている。
「ですがそれはあくまで夢に過ぎません、あなたの潜在的な不安が具体的な形をとっただけでしょう」
 そう言うと奥村は進行方向に向き直った。
「あなたは気分転換をした方がいい、長いことひとりで闘って来ましたから」
 窓の外は雨が降り出ていた。冬特有の音の無い雨だ。気付かぬうちに降り出して路面のアスファルトをしっとりと湿らせている。タクシーのフロントガラスにも細かい水滴を作ったが、やがて大きな雫となって滴り始めるまで、タクシーの運転手はワイパーを動かす事は無かった。
「そうかも知れない」柳は自問自答する様に答えた。
「俺……旅行に行こうかなって思ってます。近場で一週間くらい」
 奥村の返事には少し間があった。
「うん、良いと思います。宿泊日数や滞在先が決まったら僕に連絡下さい。裁判所に報告しますので」
「ありがとうございます」
「それといつでも電話に出られるようにしてて下さいね。まだ事のゆくえが不透明ですから」
「分かりました」柳は窓に目を向けたまま答えた。
 都会の大通りは雨のせいか、人通りは少なかった。まだらな人の群れは先を急ぐ様に通り過ぎてゆく。不快な雨から逃れようとしているのだろうか? それとも予定に間に合わないと焦ってるのか? どっちにしろ柳には皆、生き急いでいる様に思えた。タクシーの前方では信号待ちの白いバンがテールランプを怪しげに光らせている。
「そう言えば奥さんとは会ってるんですか?」
 奥村が話題を変えた。しかし柳はその話題を望んでいなかった。
「控訴保釈以来会って無いです」
「一度も?」
「一度も」柳の声は明らかにトーンが落ちていた。
「それはどうして?」
「妻が出て行ったんです。そもそも最初から妻は俺の顔なんて見たく無かった。保釈の面倒を見てくれたのはただのお情けだったんですよ」
 柳は状況を口に出してみただけなのに意外にも心が軽くなった気がした。
「そうでしたか」奥村はそう言うと思いを巡らせている様な間を空けた。それからこう続けた。
「奥さんの事は僕としても残念です。お二人の問題に外野からあれこれ言うつもりは有りませんが、僕は奥さんの誤解が解けると信じてます。ですがあなたは裁判を諦めると先ほど言いました。もっと物事を俯瞰してみたらどうです? あなたにはまだ時間が残されてます。とは言っても控訴期限の二週間だけですが……それまでにどうするかご自分で決めて下さい。僕は上告するつもりで準備を進めます」
 奥村は真っ直ぐ柳を見据えた。その眼には強い意志が宿っている。彼の信念と情熱を感じた瞬間、柳の目頭は熱くなった。しかし泣く訳には行かない。これ以上惨めな人間になるつもりは柳には無かった。
「奥村さん本当にありがとうございます。俺……ここ最近、人に対して疑心暗鬼になってたんです。でも奥村さんはそんな俺にも真摯に向き合ってくれる……それさえも気付けないのはこの世で一番の不幸者だ」
 そう言うと柳は誤魔化すように寝癖を指で梳いた。寝癖は一向に直る気配がない。
 降り始めた雨は少しづつその勢いを増していた。フロントガラスに打ちつける雨音は、ぱらぱらと軽快なリズムを刻んでいる。それと裏腹に空はより暗く、重くのしかかって来た。時間で言えばまだ正午前なのだが明るくなる気配が全く無い。寧ろ闇の勢力が攻勢を強めていた。
 多分、世界は灰色の膜に覆われたまま終焉を迎えるのだろう。その時、俺に世界の終わりの果てを見せてくれないか?

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