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哲学④「死の克服・時間と死」について思い、考えること

※この文章は、学生時代に哲学の授業レポートで書き記したものとなります。

遺言を書いたことがある。それは、大学2年生の5月のことだった。愛犬を亡くしてほどなくすると持病であった不整脈(WPW症候群発作性上室性頻拍)の発作が生じ、出先で20分間ほど頻脈(1分間に140回くらいの動悸)に襲われた。そのときは発作を止めるバルサルバ法(別名:息こらえ法)を知らなかったため対処の術なく、仕方なしに椅子に座って水を飲んだが一向に収まらなかった。「あ、これは死ぬな」とある種の予感めいたものを感じた。「ああ、人間って本当にいつか死ぬんだな」とそんなことを考えながら、ひたすらに浅い呼吸を繰り返した。
あわや救急車で搬送されそうになったあの日から、私の隣には常に死が存在していることを否定できない。

遺言を書こうと思ったのは至ってシンプルな理由である。それは「死ぬと自己が消えてなくなってしまう」という恐怖心から来るものであった。せっかく21歳まで生きたのに、せっかく沢山の知識を得て、せっかく自分の世界ができて、せっかく築いてきた関係性があるのに、それが一瞬で崩れ去ることに対する恐怖が発作を起こした日から拭えなかった。
だが、いざ遺言を書いてみると存外それは現金なもので恋人以外に宛てた内容がほぼなかった。「おかしいな。私はもっとこの世界に対して言いたいことや言うべきことがあったはずなのに。言葉がまるで出てこない…」。そんな状況に陥った。
自己の死に直面して感じたのは、「まだ死にたくない」という想いと「ではなぜ人は死ぬのに生まれてくるの?」といものであり、自分が世界に存在する意義そのものを見出そうとしたくなった。
それはつまり、ハイデガーが述べるところの自己に対する「存在理解」の何ものでもないのだろうな、と思う。

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