「自己責任」が都合よく振り回されてる件

 自己責任とは「当人に降りかかってきた利益不利益は全てその当人が引き受けること」だと思う。しかし、この定義で自己責任が使われていない事例がある。それを示す例をあげよう。

例①:無敵の人に対して「一人でしね」
 川崎通り魔事件というのがあった。どういう事件かというと無敵の人が人を殺しまくった後自殺したという事件だ。このとき世間からは「一人で死ね」という言説が飛び交った。要は「死にたいなら一人で死んで他人を巻き込むな!」というものだ。そしてこの言説は「自己責任論」と共に流布することとなった。

でも少し考えて欲しい。もし本当に「自己責任」なら「殺人という不利益を被った被害者の自己責任」じゃないのか?犯人は自己責任のもとで犯罪を遂行したのではないか?そして自己責任のもとで自殺したのではないか?最初に提示した定義に戻ってみよう。

『自己責任とは「当人に降りかかってきた利益不利益は全てその当人が引き受けること」』

この定義から考えると被害者も自己責任だし、犯人の境遇も犯人の自己責任だし、自殺も犯人の自己責任。しかし、世間は「自己責任」の名の下被害者ではなく犯人全てに責任を押し付けようとした。ここには明らかな矛盾がある。世間でいう自己責任と本来の自己責任の差をもう少し考えてみよう。

例②:生活保護受給者は自己責任 
 よく「貧困は自己責任!だから生活保護を受給せず我慢しろ!」という言説がある。しかし、これは自己責任の本来の定義とはかけ離れている。

もし本当に自己責任ならば、自己責任のもと生活保護を受給するのもアリだし、生活保護を受給せず極貧生活を送り、生活保護に嫉妬するのも自己責任だ。やはり、これも矛盾がある。

○どのような状況で自己責任論が叫ばれるのか
 私は上記の例のように本来ならば自己責任ではないものを自己責任と呼んでしまう現象が発生する条件について考えた。

そして辿り着いた結論が「フリーライダーが発生した場合に、本来自己責任ではないものを自己責任と呼ぶようになる」というものだ。

フリーライダーとは「対価を支払わずただ乗りし、コストを社会に負担させる人」のことだ。上記の例でいうと川崎通り魔事件の犯人はそれ相応の対価を支払ってないのに殺人というコストを社会に負担させたし、生活保護受給者も何の対価も支払ってないのに社会福祉というコストを社会に負担させた(と思われている)。こういったフリーライダーが発生すると社会は認知が歪み自己責任だと思ってしまう。

○何故フリーライダーを憎み、自己責任のレッテルを貼るのか?
 それでは、なぜ人はフリーライダーを目の前にすると認知が歪むのか?それは、その人がフリーライダーを「同等の存在」として捉えてるからである。人間は本当は対称ではないものを対称であると錯覚することがある。そして、本来は対称ではないため、同等の負担や利益を得ることは当然ない。このとき人は「同等の存在のはずなのに負担や利益が違う!」と「理不尽」を感じるのである。それを解き明かしたのが下の書籍である。

 そして、その「理不尽」を「自己責任論」を用いて正当化した結果が上記に挙げた例である。

○結論
人は「あいつは不当に利益を得ているんだ!ウキー!」という感情を「自己責任論」という概念を用いて正当化するため、本来の自己責任の意味からかけ離れていく。



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