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働けて羨ましい

絶賛休職中の身としては、働ける人が羨ましいです。いいなぁ。人の役に立てて。お給料もらえて。娘の通う保育園の先生が、羨ましいのです。

仕事をしているときは、同業者に対して羨ましいなどとは、思っていませんでした。そこにあったのは「お互いにたいへんだよね」という共感の気持ちです。勤務条件の違いはあれど大枠では所詮同業者ですから、羨むとか憧れるとかの対象ではないのです。同業者ではなくとも働くことはたいへんで、各々がきっと仕事のたいへんさをどこかで味わっているのだろうと、社会人として数年働くうちにひしひしとわかってきました。なのでむしろ働くことに対しては消極的になり、休みたいし、早出や残業はしたくないし、仕事をせずに暮らせるならそうしたいと思って生きてきました。客観的にみてそれが不幸なことであっても。保育士として仕事をしていた数年前、責任のある立場で自由裁量も大きかったときは、「あの子たちに会えるから」と仕事を楽しみにしていたときもありました。でも近年は仕事を楽しむどころか、責任の軽いパートやアルバイトで趣味程度に稼いで、あとは悠々自適な生活ができたらどれだけいいかと手の届かない理想を描いていました。

でもいま改めて傷病で休職し、働くことに対しての思いを言葉にするなら、「働いている人が羨ましい」「自分も働きたい」です。休職に入ったときは、働けない状態だと自覚していたし、もう働くのは無理だと感じていました。でも少しずつ回復し、周りが見えるようになってきたことで、働いていないことが自己肯定感を下げていることに気がつきました。働いていたら職場に貢献して、それはなんとなく世の中に対して堂々と振る舞う大義名分になります。働いていたときに働いていない人に対してそういった奢った気持ちが少しもなかったと言えば嘘になります。専業主婦の友だちや、発達障害で働けない知人もいるし、それぞれの葛藤や悩みもあるとは察していますが、働いていないのは世の中に居場所がなく、自分で自分の生計を立てられない弱者であるという側面もありと思うのです。働いていなくても充実して何一つ困らずに生活している人もいるのでしょう。ですが収入があるほど、それが多いほど、人生の選択肢が広がると私が信じているのは、おそらく10代20代の頃からお金に困った経験をしてきたからです。どんなにお金を積んでも手に入らないものもあるけれど、最低限のお金は時として人生の道を照らし、助けてくれます。

保育士だから、他職種に比べてもそもそもお給料は低かった方だと思います。しかも子どもを産んで復帰し時短勤務になったことで、新卒以降最低の手取り金額でした。でもいまは、少なくとも、お給料がもらえるだけまだよかったのかなと思います。「保育士として働いています」というアイデンティティーがあって、有給やボーナスがあって、社会保険料を納めて、健康保険証ももらえるからです。本質というより副産物です。ただそれでもお給料が高いほど、自己肯定感も自己有用感も高まりやすいのだろうと想像できます。税金は上がるけど、それだけの金額を稼ぎ出せる自分というのは誇りになると、あくまでも想像ですが思います。

そもそも仕事が発端の休職なのに「働ける人が羨ましい」と思う日がくるとは不思議でした。ですが一旦立ち止まってみると、あの日の「働きたくない」は、「ここで働きたくない」「この人と働きたくない」「こんな自分では働けない」であって、就労意欲が皆無という訳ではないことに気づきました。働きたいのは「自分を認めてほしい」「お給料がほしい」の二つの気持ちが大きいです。さらに翻って、自分を認めてもらえてお給料がもらえているならば、何の迷いもなく「働かない」という選択ができるのかもしれません。仕事自体のおもしろさや、仕事に対するプライドがあれば、お給料が低くてもボランティアでも続けられます。まだまだいいバランスは模索中、自分の満足できるフィールドは探し中です。

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