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発達障害は、「可愛くないウーパールーパー」だ。 その③ 【ADHDは高学歴を目指せ】

 40.

 ADHDである僕は。

 その自分の特性を、恨み続けて生きてきました。

 世間の感覚と合わず、ずれた言動ばかりになり、周囲から浮いてしまう。
 相手を思いやって発した筈の言葉で、逆に傷つけてしまうことなど数知れず。

 興味が長続きしないため、どんなことも中途半端で投げ出してしまい、高い能力を得られない。

 それでも、それなりに努力をして、ある程度の資格を手に入れたところで、その能力を発揮しなければならないような場所では、必ずミスをする。


 家庭環境と幸運のお陰で、何とかエリート校やそれなりの会社に潜り込むことは成功しながらも。

 ミスを繰り返す、という特性のために。

 周囲とうまくやって行くことが出来ず、日本社会からドロップアウト。
 バックパッカーになってそれなりに楽しむも、最後は強盗にやられて無一文で帰国。
 国際結婚をしても、簡単に浮気され出て行かれ。
 やっと就職しても、脱税犯の汚名を着せられクビにされ。

 起業をして懸命に働き多少の成功をしても。

 管理能力が一切ない、という特性のために。

 部下をうまくコントロールできず、常に人事に問題を抱え。
 最後は、唯一信頼していた部下に裏切られ、全てを奪われて無一文に。
 それを取り返すための裁判では、弁護士にあからさまな手抜きをされて敗北。
 何とか再建した会社は、コロナ禍中、台湾政府の無慈悲な営業停止令によって、全てが終了する。


 発達障害、ADHDとして生まれたがために、こんな人生を送らざるを得ないことに対して。

 本当に、うんざりしてきました。


 けれども。

 そんな中、ウーパールーパーなどに起こる、子供の形のままで生殖まで行ってしまう現象――幼形成熟=「ネオテニー」というものを知り。

 さらに、「人間はチンパンジーのネオテニーである」という説を読んで。

 少し、すっきりすることになります。


 そもそも。

 人間とチンパンジーは、そもそもDNAレベルでは99%ほどが共通しており。

 しかも、チンパンジーの子供は、顎が小さく、顔が平たく、体毛が乏しい――人間の子供と、ほぼ変わらない外見をしている。

 けれども。

 人間の子供に歯が生えたり、性的に成熟したりするのは、チンパンジーのそれよりも。はるかに遅い。

 その他にも、遺伝子の特定部位が働き始める時期が、チンパンジーのそれよりも、人間のそれが非常に遅くなっているケースは非常に多い。

 つまり、人間は、幼児である期間が長いのです。


 そもそも、「若ければ若いほど、能力は伸びやすい」というのは、周知の事実です。

 実際、外国にて教育産業に長く従事してきた僕からすれば、「子供の語学力」のとんでもない成長力には、何度も驚かされたもの。

 僕自身の中国語能力を、幼い子供にあっさり追い抜かれる――そんな経験は、何度もしてきています。

 子供時代は、能力開発のゴールデンタイムであるのは間違いない。

 そして。
 人類は、幼形成熟という特質により、その「ゴールデンタイム」をとんでもなく長く保つことになった為に、とんでもなく能力を伸ばすことが出来た。

 つまり。

 人間は「大人にならないまま成熟する能力を得たチンパンジーの一種」ではないか――そういう説なのです。


 これは勿論、ただの仮説にすぎず、証明などされていないものですが。


 この説に対して僕は、ある種励まされるような感想を覚えました。

 

 そもそも、発達障害とは、発達に障害を持った人――「なかなか大人になり切れない」人のこと。

 幼形のまま、成熟してしまったもの。


 そう考えれば。

 人間はそもそも幼形成熟する種であるのに、発達障害とは、その幼形期間をさらに長く持ってしまう生き物である――とも考えられないか。

 いわば、「ネオテニーのネオテニー」である、と。


 そして、そのせいで。

 幾つになってもミスを繰り返すし、幾つになっても彷徨い続けることになる。

 幾つになっても、「大人」として認めて貰えず、馬鹿にされ続けることになる。


 けれども、裏返せば。

 発達障害は、幾つになっても、「ゴールデンタイム」であり続ける、ということではないか。


 普通の人が、二十、三十歳あたりで「成熟」して、成長をすることをやめるのに対して。

 発達障害は、四十、五十歳になっても、まだまだ伸び続けるのではないか。


 そう思えたのです。


 実際。

 わが身を振り返ってみると。

 若い頃の自分自身が、「別人のようだ」と思えるのは、当然としても。

 僅か一年前の自分ですら――いや、一か月前の自分すら、やはり別人のように思える。


 物事の考え方、感じ方が、どんどん変わってしまっているからでしょう。

 昨日魅力的に感じられたものが、今日には不快に感じられる、そんなケースは多くありますし。
 その逆に、昨日嫌だったものが、今日大好きになっていることもある。

 初老になった僕にとって。

 他の同世代の人たちは、家庭をもって仕事をして、安定した日々を――昨日と変わらない今日を、しっかり送っているのに。

 僕だけは、新しい日を求めて、フラフラし続けている。


 こういう自分を。

 「幾つになってもフラフラしている」――「子供みたいだ」とネガティブに捉えてしまいがちでしたが。

 考え方を変えると。

 幾つになっても、変わり続けている――成長し続けている、ということ。


 そして、改めて考えてみると。

 仕事の技術、人との付き合い方、生活習慣等――様々な点で、成長を続けているように思えてきます。

 かつてはまるで出来なかったことが、出来るようになった。

 かつては解けなかった数学、英語等の問題が解けるようになっていますし。

 生徒の保護者を笑顔で説得したり、自分や他人の欠点を笑って受け入れられるようになったり、早寝早起きが出来るようになったりもしている。

 ゲームだって、かつては出来なかったテクニックをマスターしている。


 勿論、そもそもが最低レベルの人間ですから、まだまだ欠陥は多く残っており、真人間には程遠い状況ですし。

 一旦出来るようになったこと――毎日noteを書く等――が、出来なくなったりもしていますが。

 それでも、確実に、少しずつ成長は続けている。

 もう、五十を超えているのに。


 これは、普通の人には、余り起こらないことなのではないか。

 幼形成熟の利点が、大いに活かされているのではないか。

 そう、思えるのです。


 ただ、残念ながら。

 「年をとったら成長しない」という「世間の常識」という壁は余りに大きい上に。

 幼形成熟である、ウーパールーパーや犬のように、年を取っても可愛い外見で居続けられる、ということはないために。

 

 五十歳になるまで失敗を続けて来た人間が、「自分は成長したから、次は大丈夫」と言っても、世間では、誰も耳を貸してくれません。

 中々、再チャレンジのチャンスは与えられません。


 それでも。

 「未だに成長出来ている」という感覚は、「今はダメでも、明日は出来るかもしれない」という夢を与えてくれるし。

 そしてそんな夢も――幼さのお陰で――疑わずに信じることが出来る。


 そう考えれば。

 「ネオテニーのネオテニー」説を信じさえすれば。
 大げさに言えば、生きる勇気まで与えてもらえる。

 そう、思えるものですから。

 証明もクソもなく。
 僕は、この説を信じることにして。

 発達障害を、前向きに受けれられる気分になってきたのです。





 ちなみに。
 「ウーパールーパー」という名前は、商品化するために、日本の会社がつけた名前であり。

 そもそのの本名は、「アホロートル」と言うらしい。

 勿論、日本語になっている「アホ」「ロートル」という言葉とは一切関係のない、ただ発音が似通っているだけの言葉ですが。

 そもそも「ロートル」というのは、中国語の「老頭児」から来た言葉。

 中国語の「老頭児」は、日本語におけるような、老人を馬鹿にするような意味合いの言葉では、決してなく。

 関西で言うところの、「お前はアホやなぁ」というような、親しみを込めた言葉。


 関西で育ち、台湾で働いてきた僕は。

 まさしくこの「アホロートル」として。

 幼形のまま、生きて行くのでしょう。

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