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初老の発達障害が、今の「怪談」と「バックパッカー」を嫌う理由。 その② 【ADHDは高学歴を目指せ】

 31.

 十代の頃の僕は、いわゆる「怪談」が大好きで、怪談本を目につく限り片っ端から読み漁っていたものです。

 けれども、大人になって外国に住むようになり、日本の本が入手できなくなり。
 自分の中の「怪談」ブームは終わりを告げたのですが。

 やがて、動画サイトや電子書籍が普及したことで。
 外国に居ながらにして、ホラー動画、映画、ホラー小説などを自在に見られるようになり。

 僕は嬉々としてそれら「オカルト」に手を伸ばしたのですが。

 やがて、ひどい失望をするようになります。

 とにかく、詰まらない。


 

 詰まらないと感じた第一の理由は、話がとにかくワンパターンだから。

 まあ正確には、幾つかのパターンがあるため、ワンパターンというのは正しい表現ではないのですが。

 いずれにしても、類型的な話ばかり。


 怪奇現象が起こったので調べてみたらその場所で悲惨な死に方をした人がいただとか、行ってはいけない場所に入ったせいで祟られただとか、心霊スポットで怪奇現象に会い慌てて逃げようとすると車の中で足を掴まれただとか。

 どれだけ多くの動画を見て、小説を読んでも、似たような話ばかりなのです。

 「予想外の展開」というのが、殆ど存在しない。


 こちらはそもそも、現実逃避=スリルを求めて手を出しているのに、そこに「退屈」しかないようでは、興ざめにもほどがある。

 
 ただしこれは、別に今に始まったことではなく、僕の子供時代、昭和末期はもっと酷かったように思えます。

 何せ、インターネットが出現する以前。
 「怖い話」を仕入れる手段が、人から聞く、テレビや映画を見る程度しかない。

 ましてや、テレビも漫画もだめ、小説以外に情報に触れる機会のなかった僕などでは、「口裂け女」「花子さん」程度の話で怖がることが出来た、というだけ。

 前回書いた、「吉備津の釜」にしても。
 十代の僕にとっては衝撃的でも、色々調べてみれば、中国の古典怪談である「牡丹灯篭」の焼き直しでしかない部分が多い。

 多くの情報に触れることが出来る大人の僕が、多少のバリエーションが出来たとはいえ、現代怪談に退屈しか覚えなくなったのも、当然のことでしょう。


 しかし、僕が今の怪談を詰まらないと感じる理由は、ただ「類型的」だというだけではなく、もう一つ存在する。

 それは、そこに「システム」がある、という点です。


 特に、いわゆる「霊能力者」が登場する話となると。

 「このお札で霊が鎮まる」「この呪文で霊を退治出来る」等々、いわゆる心霊現象を解決するための方法を、霊能力者が伝えてくれる、というケースが多い。

 その霊能力者は、修行を積んだ偉い人物であることが多く。
 その人物の命令は、非常に合理的なもので。
 主人公は、その命令を頑張って守らなければならず。
 「お札の貼り忘れ」等のうっかりミスをしてはならない。

 そうしなければ、「霊界」の決まり通り、罰が下される――呪いにかかってしまう。


 こんな「システム」の存在が、僕は大嫌いなのです。


 そもそも。
 僕が怪談を好きな理由は、現実逃避=「日常からの脱却」が出来るからです。

 そして、現代に生きている以上、日常=システムのしっかり決められた社会ということになります。

 「先生や上司などの偉い人の命令を聞かなければならない」「命令を守るための努力をしなければならない」「うっかりミスはしてはならない」「違反をしたら罰せられる」。

 そんな「システム」の中で、人々は生きていて。
 そこから脱却することは、事実上不可能です。


 十代の僕は、毎日毎日不満ばかり、辛いことばかりでも、学校をやめる勇気は持てませんでしたし、学歴を求めてあがきもした。
 大人になって、ひたすらの自由を求めて、「不法就労」「不法侵入」等の軽い犯罪は行いはしたものの、逮捕されるような大きなルール違反はしませんでしたし。
 発達障害故に、幾つになっても顔を洗い忘れたり、アイロンをかけ忘れたり、寝ぐせを取り忘れたりすることは多くとも、そういう自分を恥ずかしく思ってしまう。

 現代社会の「システム」は、「発達障害に合わない」ということはわかっていても。
 そこから逃げて生きられるほど、僕は強くはありません。


 だからこそ。
 せめて、娯楽の世界においては、そういう「システム」とは無縁であってほしいのです。

 それなのに、多くの怪談世界では、そうはなっていない。

 現代社会とは異なった、別の「システム」があるだけで。

 その「システム」を熟知して、偉くなっている人がいて。
 人々は、その「システム」に従って、行動しなければならない。

 「システム」からは、自由になることが出来ない。


 こんな嫌な話はない。

 現実社会で、有能な他人に引け目を感じる無能な自分は。
 オカルトの社会でも、同じような目に合わなければならないのですから。


 だから。
 心が動かされるのは、「理由も何もなく襲われる」と言った、ひどく理不尽な話にのみ。

 でも、残念ながら、そんな物語はひどく稀です。

 何せ、ただ襲われるだけですから、「こういうことはしてはいけない」等の教訓を付け加えることも出来ない。

 これでは、話に深みを持たせようがなく、それこそ、「ワンパターン」なものになりがち。


 結局僕は、面白いオカルトには出会えないのです。


 結局のところ。
 多くの人は、「秩序」を求めている。

 その思いをもとに、世の中はどんどん整って行き、それに従い人間社会はどんどん発達した。

 そして、オカルトの世界にまでも「秩序」が求められた、ということなのでしょう。

 ほとんどの人は、日常世界のただの「癒し」として、オカルトを求める訳で。
 僕のような「現実逃避」を求めているのではないのですから。


 それは、「バックパッカー旅」と同じで。
 二十年前のバックパッカーだった僕は、地図もガイドブックも持たないまま、アジアアフリカを懸命に旅しましたが。

 旅人も現地人もスマートフォンを持つ今、どこにいても、宿も乗り物も簡単に予約が出来るし、いつでも旅仲間を作ることが出来る。


 「バックパッカー旅」という、相当な「非日常」であったものが、インターネット技術の発展によって、整ったものになってしまった。


 それと同様に。

 「オカルト」という純粋な「非日常」だって、かなり整ったものになってしまったのでしょう。


 だから僕は、今の「怪談」は、大嫌いなのです。


 



 


 


 


 


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