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「天然ボケ」でしかない発達障害が、「ツッコミ」で大成功した理由と、それでも結局「ボケ」て失敗した理由。 【ADHDは高学歴を目指せ】

 32.

 「べいしゃん君はツッコミがうまいねぇ」

 学生時代のある日。
 バイト先の上司から、ひどく感心した口調でそう言われました。

 三十年近くが経った今でもそれをはっきり覚えている程、その言葉は衝撃的でした。

 なにせ。
 それは、明らかな「賞賛の言葉」なのです。

 発達障害である僕は、灘校などというエリートの社会に紛れこんで育ってしまった為に。

 とにかく失敗・逃避ばかりであるせいで、親や教師等に「褒められる」経験など一切ありませんでしたし。
 コンプレックスの塊である僕は、嫌な言葉ばかり吐く存在でしたから、友人達に「賞賛される」ことだってあり得なかったのです。

 勿論、大人になって世界が広がり。
 家族や学校以外の人々――いわゆる「エリート」以外の人々と触れ合うことになり。
 そこで、僕の学歴だけを見て、「天才でしょ」と敬意をもって接してくる相手とそれなりに出会いましたが。

 親しく接するようになると、すぐに僕の欠陥――うっかりミスばかり、おしゃれは出来ない、言動は不安定――に気づき、たちまちそんな「敬意」は消え去って行く。

 

 そんな人生を送ってきた僕が。

 「バイト先の上司」という、指導者的立場にある相手から、「賞賛」を受けたのですから。

 それがどれだけ何気ない言葉であっても、深く心に染み込むのは、当然のことでした。


 そもそも。
 僕は大阪の生まれですから。

 「ボケ」と「ツッコミ」文化の中で育ってきた訳です。

 ざっくり言うと。

 「間違ったこと」を言うのがボケ。
 「正しいこと」を口にするのがツッコミ。

 大阪では、そのどちらかになるのが、自然の流れ。


 そんな中で。
 僕には、「ツッコミ」になる選択肢など、ある筈もありませんでした。

 ADHDなのです。
 どれだけ経験を積んでも、どれだけ熟知していても、どれだけ頑張っても、すぐにミスをする――間違えてしまう。

 プライドの高さゆえに、人より上の立場=人を正す方=「ツッコミ」役をしたかったのに。

 間違いばかりの僕には、うまく出来る筈もない。

 だから、「ボケ」に回らざるを得ないのですが。

 そのボケにしたところで。
 計算して口にしたものではなく、いわゆる「天然ボケ」である以上。
 受ける「ツッコミ」は、僕にとって、心外なものになりがり。

 高いプライドゆえに、 その「ツッコミ」一つ一つが、「自分を否定するもの」だと感じてしまい、反射的に、怒りを覚えてしまった。


 ツッコミもボケも出来ないまま――つまり、大阪での友人関係をきちんと築けないまま、大人になってしまいました。


 
 そんな僕が。
 アルバイト先で、「ツッコミがうまい」と褒められたのです。

 これは一大事でした。
 今までそうなりたいと思っていたものになれた――それを上の立場の人に認めて貰ったのです。
 僕は成長した――そう実感したものでした。


 ――けれども。

 友人たちの間に戻ると、僕にはやはり、ツッコミなど出来ない。

 既に大学生になっていて、僕と同様の発達障害持ちの友人が多くなっていたのにもかかわらず。
 多くの場合、間違えるのは僕の方。
 天然ボケをしてしまい、突っ込まれ、不機嫌になる――そんな日々のままなのです。

 成長なんてしていない。


 そんな中。

 上司に、褒められたのです。

 しかもその上司は、その後も、他のアルバイト仲間に対し、
 ――べいしゃん君の技術を見習った方がいい。

 と、絶賛し続けたのです。



 どうしてここまで褒められるのだろう?

 しばらく真剣に考えて、ようやく理解をしました。


 その時僕がアルバイトをしていたのは、いわゆる個別指導塾。
 講師一人、生徒一人のスタイルで、「数学」を教えていました。

 今まで書いてきましたが。

 高校までの数学というのは、必ず「正解」が準備されている世界で。
 きっちりルールにのっとって解いてさえいれば、必ずその正解に到達する。

 途中でミスをしたとしても。
 きっちりルールにのっとって検算をすれば、ほぼ間違いなく、そのミスを発見出来る。

 不思議なことなど何一つない、非常に秩序正しい世界なのです。


 ADHDである僕は、様々なことが気になりすぎる生き物で。
 しかも、失敗ばかりしてきた生き物ですから。

 普通に暮らしているだけでも、すぐに浮かんで来るのです――今の自分は、正しいのか、と。

 大事な用事を忘れていないか? 忘れ物をしていないか? ちゃんと服を着ているか? 寝ぐせを直しているか、髭は剃ったか、鼻毛は出ていないか、目糞はついていないか?  

 そんな、様々な疑問が浮かぶ。

 これが、「人生」に関するようなことを考えるときになると、もっと大変で。

 もっと努力しなければならないのではないか? いや、もっと遊ばなければならないのではないか?
 もっと社会常識に合わせた行動をとるべきではないか? いや、もっと自由気ままに生きるべきではないか?
 もっと他人に優しい言葉をかけなければならないのではないか? いや、もっと言いたいことは言うべきではないか?

 本当にこの土地に住んでいていいのか、この仕事をしていていいのか、この女性と付き合っていていいのか。
 もっと良いものが、どこかの世界にあるのではないだろうか、だから僕は今すぐここを出て行くべきなのではないのだろうか?
 
 そんな自問自答が、終わらなくなります。


 勿論、正解なんてない疑問ばかりですから。
 結論なんて出せる訳がない。

 

 とにかく、狐疑逡巡するだけ。




 そんな僕にとって。

 幼時から親しんできたお陰で、高校範囲までの「ルール」に関しては、ほぼ確実に頭に入っている――身体に染み込んでいる、「数学」という世界は。

 一切、迷う必要のないもの。

 だから、自信満々でいられる――「正しい方」の立場に立って、賞賛されるような「ツッコミ」が出来るのです。


 「生徒のミスを発見する技術、そしてそれを生徒が傷つかないように面白おかしく指摘する技術、その二つともに凄い」

 つまり、生徒のミス=「ボケ」に気づく技術も、それを指摘する=「ツッコミ」をする技術も、共に非常に秀でている、と言われたのです。


 そこに気分を良くした僕は。

 その後も、日常での鬱憤を晴らすべく、算数・数学指導の「ツッコミ」技術を磨き続けました。

 生徒のミスを見つける速さ、それを指摘する表現の面白さ、それぞれを追求し続けました。

 そしてそれが、発達障害でも会社社長として成功出来た――後に台北で随一の人気学習塾を作ることが出来た、最大の原因になるのです。



 かくして。

 天然ボケの発達障害でも、ツッコミになり、成功することが出来た、という、成功話を語ったのですが。

 残念ながら、これはそんなハッピーエンドにはならない。

 僕はADHDです――どんなものに対しても、すぐに退屈を覚え、すぐに新しいものを求めてしまう生き物です。

 「不可思議なもの」が大好きで。
 「秩序正しいもの」が大嫌い。

 つまり、本質的には、「ボケ」が好きで、「ツッコミ」が嫌いな生き物。 


  僕が得意とする――自在にツッコミが出来る、「算数・数学」の世界は=秩序正しい世界は。

 僕が、どうしても好きになれない世界なのです。

 ――得意だけど、嫌いなもの。

 そんなものを商売にしていたせいで。

 ――お金は儲かるが、仕事は楽しくない。

 そんな状況に陥ってしまった。

 その結果、熱意のこもらない仕事をしてしまい、大いに隙が出きて――最後に、お金も会社も、全て奪い取られてしまった。

 「儲かっている社長なのに、金銭管理を一切しない」
 「会社の名義上の所有権を、離婚した妻の家族に渡したまま」

 などという、とんでもない「ボケ」をかましてしまい。

 「簡単にお金を奪える」「このまま会社も奪える」と気づいた台湾人に、見事に「ツッコミ」をされたのです。


 「ツッコミ」にはなりきれず、どうしても「ボケ」に戻ってしまう。
 それが、発達障害の限界なのでしょう。

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