コップの水は、半分もある?半分しかない?(2)
「あ、宝くじ売ってる。買っちゃおっかな」
「えー、どうせ当たらないよ」
大通りの歩道にある桜はもう既にピンクを少し残し、そのほとんどが緑となりつつあった。その道を歩く女が二人。そのわきにある、少し狭くなった路地の宝くじ売り場の前で足を止める。
「何を言ってるのよ。当てればいいのよ当てれば」
茶色のショート髪を右手でさっと流すと、明里は肩にかけていたカバンから財布を取り出す。
「あんたも買えば? 人生変わるわよ」
「当たればのはなしだよ、それ。私はいいかな」
玲子は、明里の提案に首を振った。
「そう、じゃあ買ってくるわね」
「うん」
少し強めの風に攫われるように、玲子の黒い長髪が落ちた桜の花びらと共に舞った。彼女は軽く身をすくめながら、風が止むと黒縁の眼鏡をかけ直した。
「買ってきたー。あたるといいな」
「そうだね」
ウキウキとした様子で明里が戻ってきた。
「あ、髪桜ついてる」
「え? どこ」
「ちょっと待って取ったげる」
明里の手が、玲子の髪に触れる。するすると抜けるように間に埋まった花びら二枚が彼女の指にからめとられ、ひらひらと回転しながら落ちた。
「よし、取れた」
「ありがと」
二人はまた歩き出す。
「あんたの髪ってホントいいわよね」
「そうかなぁ」
「そうよ。細いし、真っすぐだし、サラサラだし、あと綺麗な黒よね」
「んー、どうだろ」
玲子は首を傾げる。
「褒められてんだからハテナ浮かべないで、そうだろう、えっへん。って胸張るくらいしなさい」
「えー、なんかそれ鼻につかない?」
「遠慮してる方が鼻につく」
「…うーん、まあそうかな」
カツコツカツコツと、二人とすれ違う人々とのコンクリートを叩く音をかき消すように、車道を車や自転車が通る。
「今日、眼鏡買いに行くんでしょ?」
「うん。なんか度がちょっと合わなくなって。ついでにフレームも変えよっかなって」
「そう。ねえ、そういえば玲子ってコンタクトにしないの?」
「そうだなー。しないかな」
「そうなの。別に眼鏡が悪いとかではないけど、コンタクトにするとそれなりに印象変わるってよく言うじゃない。試してみればと思ったんだけど」
「痛そうで怖いじゃん」
「慣れれば大丈夫。というかちゃんとすれば痛くないわ」
「あれ、明里ちゃんて目悪かったっけ」
「カラコンよ。視力は両方1.5でございます」
「ああ、なるほど」
玲子はコクッと頷いた。
「まあ、確かに合わない人もいるって言うしね。無理して付けるものでもないか―」
「あ、ここここ」
そう玲子が指さす先には、道路側全面がガラス張りの建物があった。一見すれば高級そうだが、ガラスの向こう側はそれでも少しカジュアルな雰囲気に窺えた。
「いらっっしゃいませ」
二人は軽く会釈する。
店内には、色形様々なメガネのフレームがずらっと並べられていた。
「どうするの? とうとう黒縁卒業?」
「いやー、正直言って黒が無難だよね」
そう言うと玲子は、今かけているものとほとんど違いのない眼鏡を手に取り、鏡で確認した。
「うん、これでいいかな」
そして、彼女が店員に声を掛けようとしたその時。
「ちょっと待って」
明里が玲子の手を止めた。
「あんた、それ今の何が違うの?」
「え、ほとんど一緒だけど」
「ん? 眼鏡変えに来たのよね」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、色はいいとして、せめて形位変えても。ほら、これとかかわいいじゃな―」
「チッチッチ、明里ちゃん。よく聞いて」
明里を遮るように玲子は人差し指をピンとたてて、真剣な顔で語り始めた。
「私はこれまで、眼鏡を変える度に眼鏡屋さんで様々な眼鏡を試着してきました。赤色のもの、丸いフレームのもの、上だけ縁のないもの、エトセトラエトセトラ…」
彼女は大きく息を吸う。
「しかーし」
さらに笑みを浮かべる。
「何一つ、私に似合うものはありませんでした」
「そ、そう、なの」
玲子のその演説に明里は若干気圧されていた。
「確かに明里ちゃんの言うことも一理ある。ただしそれは、おしゃれ強者の明里ちゃんであればまだしも、私のような人間には決して当てはまらないのです。いいですか、ただの野球少年がプロ野球選手のバットを持ったところで、ホームランを打てるわけではないのですよ。本当のスペシャリストというものは、自分の身の丈に合ったものを選択できる者のことを言うのです」
明里に雷が落ちる。
「た、確かに…。はっ、まさかあんたがほとんど同じ系統の服しか持っていないのも」
明里は両手で口を覆った。
「明里ちゃん…、そういうこ―」
「いやないからね」
二人ではない別の声がした。
「あ、七海じゃん。どしたの?」
「いや、あんたらが誘ったんでしょーが。玲子が眼鏡変えるから一緒に行かないかって」
「そういえばそうだった」
「私も丁度変えようかなって思ってたとこだったから―」
「あっ、そうなんだ。そう言えば七海って目悪かったもんね」
「そうそう。外ではコンタクトなんだけどねー。家ではさすがに眼鏡だから」
「そっかー。じゃあ一緒に選ぼ。とはいえ私は既に決まったけど」
「先に度数とか合わせてもらえば?」
「うん、そうする」
七海の提案に乗るように、玲子は店員の方へと向かった。
「さて、私も決めますか」
七海は明里と一緒に「どうしようかなー」と店内を見回る。
「そうそう聞いてよ七海。玲子がどうしていつも同じ眼鏡と服を身に着けているか知ってる?」
「あーうん。さっき、ちょろっと聞いてた」
七海は苦笑いを浮かべた。
「まさか玲子にファッションで諭されることがあるとは思わなかったわよ」
感心するように明里は頷く。
「いや、うん。そ、そうだね」
「なによ。もの言いたげな感じで」
「いやー、いつもの明里なら―」
七海は少し咳払いをすると、明里を真似るように言葉を放つ。
「あんたね、少しは別の格好しなさいよ。ダサいとまではいわないけど、面白味がないわよ。とか言うと思った」
「た、確かにそうかも」
「でしょ。ちょっと意外だった。明里が冗談でなく納得してたのが」
「…そうね。でもなんていうか、玲子って普段は主張強くないけど、たまーにああやってなんか語気強くなるのよね。変なこだわりあるっていうか」
「ああーわかる。なんかそれに圧倒されちゃうときとかあるわ。まあでも、私たちもいい年だからそこまで攻めた格好はできないけど、玲子はもう少し違った服着てもいいと思うけどね」
「そうよね」
そう話しながら二人が視線を向けた先、玲子はとても高揚した様子で二人の方へ歩いてきていた。
「まあ、今日は玲子に納得させられたことにしておきますか」
「だね」
「なになに、どうしたの二人して私を見て。え、なんかついてる?」
「いや、なんでもないよ。眼鏡、買えてよかったね」
「うん。七海もいいの見つかるといいね」
眼鏡店のガラスに写る三人、その向こう側には、桜の花びらがひらひら蝶のように飛んでいた。
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