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C-PTSDの私のこと、私の始まり。(長文です)

※注意:重い話が含まれます。
できるだけ言葉を選んで配慮はしてありますが、精神症状の再燃やフラッシュバックの引き金になりそうな方は、読むのを止めるか、それを考慮してお読み下さい。


とある公園の鮮やかな枯れ葉


私は、もともと文章を書いたりするのは好きだけど、順序立てて何かを構築する作業が苦手で、飽きっぽい。

その上に、短期記憶(数秒~数時間と比較的短い時間の記憶)が解離性障害のせいなのか?とても苦手で、毎日、出かける支度をしてて、意識していないと
「さっき、何か大事なものを取りに来て、2階にきたはずなのに、何をしたかったんだっけ?」と、家の1階と2階の往復を2回以上は繰り返してしまう始末だ。
だから、メモや忘れない為の意識的な独り言は、とても多くて、年齢も上がってきて、若い時より一層「アレ」「コレ」と、固有名詞のわからない言葉の表現をしがちになっている。
だから、認知症の人のことがなんとなくちょっとわかる気がしている。まだ、そういう年齢まではいってない筈なんだけど…
でも、昔よりはマシ。

若い時は、もっとワケがわからなかった。
記憶云々というより、私が私じゃ無かったり、離人感なんて普通で、なにより壊れたロボットの操縦桿を握らされた中のヒトみたいな感じで、人格がいて(砕けた言い方をすれば、多重人格)、その人たちは、私のコントロール下を超えて、想定外の動きをするし、私の心と記憶力を奪って、勝手にやりたい放題されていたこともあって、苦しかった。

『機能不全家庭』とか『AC』なんて言葉が、今ほど言われていない時代に、虐待や虐め、父親のアルコール問題がある中で、私は育った。
そして、『精神疾患』だと、医者に診断してもらうまでに、気がつけば、言ったことと、やったことの辻褄が自分で合わなかったり、思ってもいないことを(今、思えば人格が)勝手に言って、
「嘘つき」
「おかしい」
と不信がられて、うしろ指をさされていた。

私は、精神疾患で、病識や治療と出合わなければ、本格的ダメ人間になっていたし、恐らく路頭に迷ったんじゃないだろうか?
間違った情報に踊らされて、迷子になって、人生の道を踏み外してたんじゃないかと思っている。

だから、『精神疾患』の診断がついた時『精神障害』の手帳がもらえた時、「やっぱりな…」と思うと同時にホッとしたのを憶えている。

もともと健常で、楽しい時代を経てからの『精神疾患』と診断されてきたタイプの人とは、そこが違うかもしれない。

精神疾患の診断名がもとで、まわりから、どんな目で見られて、差別受けるか?よりも、『私は私が何者であるか、わからない』ことの方が、ずっと苦しくて、怖かった。
だから、私自身よりも、母とか親戚とかまわりの人の方が私に診断がついて、手帳を受け取っていることにショックを受けていたような気がする。

だから、私はホッとしているけど、きっとまわりには、あからさまに言ってはいけないことなんだろうな…と、感じたし、生きていく中で、色々な人と関わっていく中で、まだまだ理解の難しい分野なのだろうな、と実感する。

ウチの白いヒト(猫)


文章を書くのが好きで、小学校高学年くらいの時には、ストーリー漫画家か、小説家か何かになりたかった癖に、卒業アルバムに将来なりたいもの『画家』とか書いたのは、とてつもなく空気を読み過ぎて、混乱した頭でいたからだ。

イラストや漫画を描くのが好きだったけど、下手くそだと、「バイ菌の癖に」とクラスの男子には馬鹿にされて虐められて、ストーリーは、浮かぶけれども、記憶もあやふやになって途中から構成がぐちゃぐちゃになるし…

学校で書いて先生からは、褒められた作文も、父から
「お前の文は、自分の気持ちや思いばかりしか書いていない。文の流れや構成が面白くない、稚拙だ」
と、罵られて、貶されて、私の夢は見事に砕けて、自信も持てずに、食い下がることも出来ずに、それでも近い職業になれればと、その時思いついたものを書いた、それだけだった。

今だったら、『画家』だって、それで食べて行こうとかしたら大変だし、きっとそれを目指しても、誰も私を認めないだろうことは、明らかなのだけど…子供の頭で考え抜いても、狭い世界で生きていたので、やはり難しかったんだろうと思う。

ある日、母と一緒に食べたブラッドオレンジのタルト


そんな流れで、なんとなく高校2年で始めた「文芸部」で作った「詩」の文集が顧問の先生にも、友達にも好評で、「詩」なら好きにつくれる気がして、小説の構成よりは手軽な気がして、趣味であれば特別に誰かの評価を気にする必要が無いからと、なんとなくで今も「言葉」が降りてくる限りは、続けていたりする。
だけども、評価される事に免疫がなくて、傷つきたくなくて、詩誌に出したりするのは、恐れ多くて、自己満足のまま、今もいる。

大人になって、社会に出てから、色々な人と会った。


ACの仲間に、グループカウンセリングや、自助グループで出会ったり、そこでAA(アルコール依存者の自助グループ)や他の嗜癖問題(共依存症やギャンブル依存症、摂食障害)の仲間についても学んで、出会っていった。

高校卒業後すぐの就職は、ダメになってしまったけど、カウンセリングで回復してきて、当時の精神科の医師に診断してもらって(当時、最初の診断は「自律神経失調症」)、薬の服薬もあって、少しずつ安定してきていたので、高校の友人の紹介でコンビニのバイトをしたり、20代になってくると、詩の繋がりで、ポエトリーリーディングを知ってイベントに通うようになって、趣味の友人もできた。

その後も、地域で手話を勉強し始めて、色々なろう者や手話学習者と知り合いになり、ろう者が店主の居酒屋で、今のろう者の夫とも出会うことができた。

自分で書いたイラスト(カップルという手話のつもり)



時系列は前後するが、15歳からカウンセリングに通うようになった。
理由は、私が父からの性虐待について、母に手紙で訴えたことに始まる。
母に内緒で、父から性虐待を受けていた。(その内容については、フラッシュバックの症状の引き金になりそうなので、省略する)10歳頃からだった。不定期にそれはあった。
殆ど、母の居ない日の夜に、酔った父親に布団に呼ばれてだった。

母は、パートをしていた。生活費の殆どを父が飲み代とギャンブルにつぎ込んで、食い潰していた。私と弟、のちに妹が生まれて、子供たちが食いっぱぐれないようにと、身を粉にして働いていた。
それ以上にワーカホリック(仕事依存症)だった。無認可保育園の調理をしてて、けれど規模は小さく、調理担当は母1人。給食の献立を栄養計算もして、つくっていた。
保育士の職員とも、一緒になって、その保育園のイベントも手伝っていたし、月に1回くらいは夜に職員会議にも出ていた。
活き活きしていたけど、私と弟が大きくなってからは、殆ど放任状態だったし、困らせると、眉間に皺寄せ、常に苛立っていた。
「1日が24時間じゃなくて、48時間ならいいのに」
と、よく呟いていた。

あとで母からきいたけど、当時は父も母も共働きで好景気にわいていたのに、父は自分の使いたいようにお金を使ってしまい、主に母のパートの給与(およそ16万)で生活を成り立たせていたらしい。
5人家族で、16万…私は、それだけで、よくも生きてこられたもんだと、呆れを通り越して、感心してしまった。

それだから、母は余裕なんてなくて、私と父のことを変に怪しむことも無く、きてしまっていて、私の15歳の告白に驚愕して、頭は真っ白になったと思う。
父から私や弟への暴力や怒り方については、思うところはあったらしい。
けれど、父母ともに、戦後直後の生まれで、自分たちも怒鳴られたり、殴られたりしながら育った為か、子供に親が手を上げたり、怒ったりする事が「躾で普通のこと」という認識が強くて、妻として、夫をどう宥めようか?と思案するくらいだった。

けれど、私の具体的な性虐待の事についての告白には、怒りと悲しみ、衝撃が渦を巻いてしまったようである。

だけど、考えてみてほしい。
私は、子供は居ないけど、結婚しているので、夫のそういった裏切りについて、混乱する気持ちは、少しわかる。
好きだったら、尚更、信じていたら尚のこと…
何故?どうして?
なんで娘に…?!

そして、私の知る、機能不全家庭の母親は、大体が娘の味方をしてくれない。
「あなたの思い違い」
「そんなことは2度口にしてはいけない」などの
セカンドレイプだ。
愚かなことだ。1番弱い立場の人間が切り捨てられる。

けれど、私の母は違った。


私は父から脅されていた。
「このことをお母さんに言ってはいけない、もし言ったら、全部お前のせいで壊れる」
そうやって。

そのことも、手紙には書いた。母から捨てられるかも知れないと、恐怖を抱えながら。

けれど、私の母は、私を泣きながら抱きしめた。
「辛かったね、苦しかったね」
と。
この人は、信じられると思った。

母は、地域の保健所に行って、窓口で相談をして、紹介された精神保健センターへ赴き、必死でこの家族の問題に向き合おうと努力をしてくれた。

1回目に行った、精神科医は、母としては合わなくて、もう一度、精神保健センターに違うところを紹介してもらい、
精神科の病院ではないものの、家族の問題の相談を受けてくれる、カウンセリング室と繋がることができた。

とある公園の遊具


本当は、問題を起こしたのは父であるから、私にカウンセリングを受けさせることよりも、父にアルコール問題に取り組んで反省して欲しかったようだが、父は断固拒否。
むしろ、私が母に告白した事で、逆上してしまい、更に酔って暴れるようになっていた。

家族は、そんな父に耐えきれなくなっていた。
毎夜暴れて大騒ぎする父が怖くなった、小学生の妹を抱きしめながら、寝た夜があった。
妹は、ふるふると震えて、私がなんとか、妹が自分を責めないように、父を嫌いになり過ぎないように、
「今のお父さんは、お酒のせいで暴れてるだけ。病気なんだよ」
とか、言っていたのを、私の腕の中で呟くように復唱しながら自身に言い聞かせていたのを、今でも忘れられないでいる。

(私のせいだ…全部…私のせいだ…)そう思ったし、でも、そのことをなんとか背負って生きて行こうとも、思っていた。


父の脅し通り、家庭は壊れていった。
私の母への告白で。
高校受験前には、父と母は、離婚した。

母は
「お前たちのお父さんを、捨てるかたちの選択しかできなくてごめんね」
と、涙ながらに言っていたけど、
私からしたら、スッキリしていた。

壊れていったと、言ったけど、もともと壊れていたのが、露呈しただけのことだった。

もう、ボロボロのボロ屑で、どこからも直しようも無いと、私は最初からわかっていたから、お母さんには、新しい男の人でも見つけて、幸せになって欲しかったけど、
父に対する、母の愛と執着は(多分、父のことで懲りてしまってるのもあり)、父が死ぬまで続いてたようで、本当に、あんなののどこが良かったのか、全くわからないけれど、他の男の人へ気持ちが移るようなことは全く無かった。


私のお気に入りの秋冬もののロングスカート


私の頭から直接引っ張り出している、記憶の羅列なので、読みにくかったかも知れないけれど、私の事で、今言える、精神疾患に至った経緯、私の自己紹介はこんなところである。

とても長いのに、最後まで読んでいただけたのなら、幸いです。
ありがとうございます。

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