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ヴェネツィア、フランク王国の大軍をやっつける

476年の西ローマ帝国消滅後、ゲルマン諸国とビザンティン帝国が、豊穣なイタリア半島をめぐって領土の取り合いを繰り返していました。

687年に今のベルギーのあたりからピピン1世が登場し、750年のピピン3世の時にフランク王国の支配が強まり、その息子カール大帝(シャルルマーニュ)は、812年西ローマ帝国を復活させるまで領土を広げます。

810年、カール大帝の息子はヴェネツィアを征服しようと大軍を送り込みます。
しかし、このちっぽけな島の住民たちは知恵とその強い独立心で、フランク王国の大軍を退けます。

具体的には、大軍の船の進路に杭を打ち立てて封鎖したり、浅瀬におびき寄せて座礁させたりして、敵の船に乗り込んで槍や弓で撃退したのでした。

ラグーナ全景の衛星写真。真ん中の細長い島がリド島、中央の魚の形の島がヴェネツィア本島

このラグーナ(大湿地帯)の地形の特長や潮の干満を熟知しているからこその作戦でした。
ヴェネツィアはその後何度も、この方法で敵の大軍を撃退するのですが、とりわけ『こんな小さなとるに足らない島』だと甘く見た軍隊は、かならず高い代償を払わせられたのでした。

古代、中世の街は、敵の侵入を防ぐための城壁で囲まれていました。
ヴェネツィアは、城壁がまったくない一見無防備な街のようですが、城壁よりももっと効果的なラグーナ(浅瀬の海)が、街を守り続けていたのです。

こうしてヴェネツィアは、フランク王国支配の危機からのがれ、当時のビザンティン帝国(東ローマ帝国)の傘下として位置しますが、すでにこのとき東方世界に対する強い憧れと興味を示し続けたヴェネツィアの特色がはっきりと表れています。

このフランク王国軍の撃退は、その後の交易でも政治的にも西と東を結ぶ窓口、つまり西欧世界とビザンティン、イスラム世界とのパイプ役としてのヴェネツィア共和国の歩みの基礎となる、象徴的な出来事といえると思います。

それから一度も他国の支配を許さなかったヴェネツィアを、ナポレオンによって終わらせたのは、アドリア海に浮かぶこの小さな、そして強大なヴェネツィアに対するフランク人の一千年にわたる執念が勝ったからかもしれません。

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