イタリア文化コーディネーター | Maki Yoshida Marinello

卒業旅行で魅せられたイタリアに惹かれ、移住。20年間水の都・ヴェネツィアで暮らし、現地…

イタリア文化コーディネーター | Maki Yoshida Marinello

卒業旅行で魅せられたイタリアに惹かれ、移住。20年間水の都・ヴェネツィアで暮らし、現地で子育ての他、日本とイタリアを繋ぐ様々な活動に従事。イタリア文化コーディネーターとして活動中。

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ヴェネツィア商人、聖マルコの遺骸を盗む

810年にフランク王国の大軍を追い払うのに成功したヴェネツィアは、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の勢力圏内で成長してゆきます。 828年、二人のヴェネツィア商人が、エジプトのアレキサンドリアにある寺院から、福音史家(evangelista=エヴァンジェリスタ)の一人、聖マルコ(サンマルコ)の遺骸を盗み出し、ヴェネツィアに持ち帰ります。 それまでのヴェネツィアの守護聖人である、聖テオドーロよりも、聖人としての「格」がずっと上である聖マルコの遺骸を手に入れることは、国として

    • ヴェネツィア、フランク王国の大軍をやっつける

      476年の西ローマ帝国消滅後、ゲルマン諸国とビザンティン帝国が、豊穣なイタリア半島をめぐって領土の取り合いを繰り返していました。 687年に今のベルギーのあたりからピピン1世が登場し、750年のピピン3世の時にフランク王国の支配が強まり、その息子カール大帝(シャルルマーニュ)は、812年西ローマ帝国を復活させるまで領土を広げます。 810年、カール大帝の息子はヴェネツィアを征服しようと大軍を送り込みます。 しかし、このちっぽけな島の住民たちは知恵とその強い独立心で、フラン

      • ヴェネツィアのトルコ人商館

        サンタルチア駅から大運河をゆくと、右手側に見えてくるのが「トルコ人商館」と呼ばれている建物です。 このヴェネト-ビザンチン建築の館は、1227年ペーザロ家の始祖、ジャコモ・パルミエーリによって建てられたもので、その後1381年ヴェネツィア政府によって買い上げられました。 キオッジャ戦争での貢献に対する報償として、フェラーラ候に与えるためでした。その後、何度か持ち主が変わった後、1621年ヴェネツィア政府が、トルコ人のために商用の拠点として指定します。 そのため、館内部の

        • ヴェネツィアのサンマルコ行政官

          『モロジーニ家は、ヴェネツィアで最も古く、由緒ある家系のひとつで、4人の総督と27人のサンマルコ行政官を輩出し‥‥‥』と、かつてのヴェネツィアの著名な家系が紹介される時よく目にする文章です。 共和国の代表で、政治のトップである総督(ドージェ)の次に書かれてある、この「サンマルコ行政官」は、その序列通り総督の次にあたる要職でした。 それまでの功績や実績と人物を総合的に考慮して、ヴェネツィア共和国の大評議会で選出され、任期が終身であることも総督と同じです。 では、サンマルコ行

        ヴェネツィア商人、聖マルコの遺骸を盗む

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        • ヴェネツィア共和国の歴史
          7本
        • ヴェネツィア人物伝
          5本
        • ヴェネツィア島物語
          4本
        • ヴェネツィア橋物語
          2本

        記事

          ヴェネツィア特有の名称

          迷路のように入りくんだ、ヴェネツィアの街を地図を片手に歩くとき、きちんと読み取りたいのが上記の写真のような表示板です。 これは「nizioletto」(ニショエット=小さなシーツという意)と呼ばれるもので、白地に黒文字で道の角、広場、橋の付近などの建物の壁に直接、ヴェネツィア方言で記入されています。 イタリアのみならずヨーロッパの街ではたいてい、通りの名前と番地に広場の名称を把握しておけば目指す場所に着くことができます。 が、ヴェネツィアでは住所表示も例えば「Dorsodu

          フェニーチェ劇場

          10月は、オペラシーズンの始まりでもあります。ミラノの「スカラ座」とならんで名高い、ヴェネツィアの歌劇場「La Fenice」は、サンマルコ広場から西に少し歩いた所にあります。この劇場は、ヴェネツィア共和国崩壊前夜の、1792年5月に開場されました。 ミラノの「スカラ座」は、1778年の落成、パリの「オペラ座」は、それより100年ほど前ですが、ヴェネツィアもオペラ先進都市のひとつで、1600年代前半からたくさんの歌劇場で、オペラを楽しむ土壌が出来ていました。 サン・モイゼ

          画家ティツィアーノ 2/2

          前回からの続きです。 彼の描く、肉感的で堂々とこちらを見据えるビーナスは、当時はスキャンダルにもなったのでした。あのミケランジェロでさえ、ローマでティツィアーノと会った後、天才同士の心理的な確執からか、「色使いは確かに上手いが、デッサンがなってない。」と認めなかったそうです。しかし、批判をものともせず、同時にいくつもの作品を描き上げてゆくエネルギーと、色に対する執着は、天分に恵まれた者だけの要素なのかもしれません。 宗教画の中で、その人物や風景、動物や自然などの色彩と構図

          画家ティツィアーノ 1/2

          ルネサンス時代の天才画家、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、1490年に生まれました。 当時のヴェネツィア共和国の山の地方カドーレの旧家にに生まれた彼は、ほんの小さな頃から並外れた芸術の才能を示したため、ヴェネツィアに出てモザイク師のもとで修業を始めます。  ふるさとの大好きな森や川で遊んでいた、9歳の山の少年は、それでもヴェネツィアの街にどんどん馴染んでいきました。当時のヴェネツィアは、西洋と東洋が交差する刺激的な大都会で、芸術に必要なもの、画材から優秀な師匠たち、注文

          アルメニア人のサン・ラザロ島 2/2

          1/2の続きです。 見つかれば即逮捕という中、彼は女装で身を隠し修道院を出、まずカプチン会の修道院でかくまわれます。それからフランス大使館経由で、なんとか当時のヴェネツィア領モドーネ(現ギリシャ、ペロポネソス半島の南西部)へたどり着いたのでした。 そこで、1701年9月8日25歳のメキタルは、弟子達とともに新たな修道会をたちあげます。修道院と教会の建設、運営のための借金をようやく返済し、貧しい人々へ還元が出来始めた時は、すでに10年以上が過ぎていました。 さてこれからとい

          アルメニア人のサン・ラザロ島 1/2

          ヴェネツィア本島南東のラグーナ上、リド島の手前にある「アルメニア人のサン・ラザロ島」は、島全体が、アルメニア教会のメキタル会の修道院です。 18世紀の初めに、アルメニア人の修道院になる前は、9世紀頃からハンセン病患者や、巡礼者、貧しい人々のための病院がありました。 ハンセン病の原因となる細菌は、古来から湿度の高いアジアにあり、中東を超えアジアへも行き来していた、ヴェネツィアの商人たちが感染することもあり、他の地域よりもこのための病院が比較的多いのです。 14世紀半ばには、

          音楽家ヴィヴァルディ

          楽曲『四季』で有名なバロック時代の作曲家、バイオリン奏者である、アントニオ・ヴィヴァルディは1678年3月4日ヴェネツィアに生まれ、小さい頃より、理髪師でバイオリン奏者でもあった父親から音楽の手ほどきを受けていました。 けして裕福ではなかった6人兄弟の長男ということもあり、おそらく宗教的な理由からではなく、音楽を続けられる環境をもとめて聖職者の学校へ入ったのでしょう。 25歳の時司祭に任命されますが、すぐにその赤毛のために「赤い司祭」とあだ名されますが、翌年、元来の持病の

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(3/3)

          前回からの続きです。 ヴェネツィア創成期、ビザンティン帝国の傘下だった時期以降、18世紀にナポレオンに倒されるまで、ずっとどの権力にも属さずに独立と自分たちの主義を貫いてきたヴェネツィア。 その千年にわたる歴史の中で、フランスは強大な国でありながら、なぜかヴェネツィアに裏をかかれて知恵で敗北するような、苦い出来事が多々あります。ローマ教会にしても、カトリック教徒にとって「死」と同義語の「破門」でさえ、ヴェネツィア人は幾度の破門にもまったく動じない、許しがたい国でした。 ロ

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(3/3)

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(2/3)

          前回からの続きです。 ヴェネツィア以外の国、例えばフィレンツェなどはどうでしょうか。 共和国と言っても実際は、メディチ家の独裁体制だった300年ほどの歴史は、その内外に大きく知れ渡っています。 グエルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の争いはあったにせよ、全体的にはローマ教会との深いつながりは否めないこと。ルネサンス(芸術などの新しい表現や人文主義などの文化革新)の保護者のイメージが定着していること。現代イタリア語の基礎が、トスカーナ方言をもとに構築されていること、などの理由

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(2/3)

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(1/3)

          イタリア半島は、ローマ帝国滅亡のあと、北から南から、西から東から、様々な民族が侵入を繰り返し、異なる文化を持つ大小の国々が建設されて来ました。 南部はイスラム、スペインの影響を強く受け、中部から北イタリアでは、小都市国家が分立していました。 今では「世界最小の国」であるヴァチカン市国も、かつてはローマ教皇領として、ナポリの北側からローマ周辺はもちろん、(フィレンツェ、シエナを除き)東部はヴェネツィアの手前まで達していました。 容姿もメンタリティーも、まったく違う民族が散らば

          ヴェネツィアとイタリアの歴史観(1/3)

          サン・マルコの時計塔

          ヨーロッパの街角の要所には、必ずといっていいほど古い大時計があります。 内部は複雑なしかけの、外側は芸術性の高い装飾をもつ時計は、15~16世紀には、富と繁栄の象徴だったからです。 サンマルコ広場にある、この時計塔も、ヴェネツィアが国としてもっとも栄華を誇っていた時期に作られました。 1493年、ヴェネツィア政府は、エミリア地方で時計職人として名声を得ていた、ライニエーリ家に時計の制作を依頼します。 時計塔の場所は、リアルトへと続く道に通じているサンマルコ広場北側で、海か

          ヴェネツィアのカーニヴァルと1492

          ヴェネツィアの2月はcarnevale(カーニヴァル=謝肉祭)一色になり、街はバロック時代風の衣装にかつら、地面すれすれのマントに仮面、それを見物しようとする人達で道も広場も溢れます。 各地にいろいろなカーニヴァルがある中で、ヴェネツィアのそれの特長はやはり仮面にあります。 もともとの謝肉祭の起こりはもっと古いのですが、ヴェネツィアで始まったのは11世紀頃で、12世紀には仮面職人たちがいたということです。 仮面をつけることで、当時の社会的身分からの解放という意味があり、貴