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『インヘリタンス-継承-』観劇感想文

圧巻のスタンディングオベーションだった。
観に行って良かった。脚本も、翻訳も、演出も好きだった。友人で観に行くのを迷っている人がいれば、わたしは迷わず背中を押すだろう。「とにかく観てきて。話はそれからだ」と。

何の因果か、低容量ピルで4ヶ月に一度ほどに減らしている月のものが重なり、股から流れる血に女であることを突きつけられながら、少し重だるく時たま下腹部が絞られるように痛む身体を東京芸術劇場の席に落ち着け、NYのゲイ・コミュニティを舞台にしたを演劇を観る。

性別も国も文化も性的指向も違う人々の話、当事者じゃないという事実をどこか知らぬ間に余裕がり、口の端をあげてさえ眺めていたわたしは、物語終盤には鼻を啜りながら涙を流し、これは自分と地続きの物語であり、身体的構造や性的指向から当事者ではなくても、決して他人事にしてはならない物語だと、思い知ることになった。

役者さんの演技が本当に素晴らしく、この『インヘリタンス-継承-』を日本で初上演することで、ゲイの方が差別され、闘ってきた歴史を継承していくという覚悟のような、凄みが滲み出ている。これだけ全員の視座が揃ったカンパニーは多くはない。

それぞれの役を生きるには、どんな経験を、思考を、稽古を、対話を重ねてきたのだろう。
彼らは、愛の時を過ごし、それが過去になった時「本当はそんなこと言いたかったんじゃないんだ」「あの時ああ言わなければ良かった」といった後悔をするのだが、これがセリフも場面も一般的じゃないのに、リアルすぎて自分の身にも覚えが何個も出てくる。ああ…わかる…と内省を始めた時に、上質なユーモアに会場全体が包まれて人ってそういうものだ、とふっと心を持ち上げられる。苦しくも絶望しきらない、演出家熊林さんの絶妙なバランス感覚に支えられて話は進む。

それにしてもこれを何回も、連日客前でやるなんて、えぐい。精神的にも体力的にもあまりにもえぐい。セリフ量もえぐ多い。特に炎のような男、トビー役の田中俊介さんはどんなタフガイなんだろう、と思ってしまうほど、燻って、燃え盛って最後は爆発して消えて…素晴らしかった。今後再演されたとして、役者さんが変わるとしたら、とんでもないプレッシャーになるだろう。

全てのシーンが、セリフが必要で無駄がない脚本の中、新原泰佑さんが一人二役を演じるアダムとレオの対照が印象的だった。(下記より本格的なネタバレを含みます。念の為)

もらわれっ子ではあるものの、裕福な家庭で育った、イエール大卒のエリート、アダムは彼氏と別れ、傷心旅行で火遊びのつもりでサウナに。

そこで10人以上とのfuckの末(6時間半の上演時間で多分向こう10年分のfuckというワードを聞いた)、HIVに感染したかもしれないと気づき、母親に電話で助けを求める。母の手配した病院で薬が処方され、その後に心配した家族と旅行にも行く。

HIVによって命が脅かされるかもしれないという恐怖に眠れない日が続くも、家族の理解があって、甘やかされ、高等教育を受け、HIVに関する知識があって、何より彼は自分で「助けて」と言えた。そしてその早急な処置のおかげで、感染はしたものの、u=uとなり助かった。

一方、誰にも本当の自分を明かせず「助けが必要だ」って言えなかったトビーに恋した最下層の貧困に育つ男娼レオ。

アダムがサウナで複数の男に犯された話を聞いて性的に興奮したトビーは顔がそっくりのレオを身代わりにするように、ヤクをキメさせ、複数の男に犯させ、それを眺める。そして「ここに来ると決めたのはお前だ」と言うのだ。

その後、レオはHIV陽性となり、それもだいぶ進行した冬に街中の貧困層向け無料診断所でペラペラのシャツ一枚でその事実を知ることとなる。

レオには、知識がなかった。学ぶよりも、特権階級には当たり前の、生きるために食べるということのハードルがとてつもなく高くて、すべきことが沢山あったから。72時間以内にPEPを飲めば血中のウイルスが検出限界値未満になり、性行為で相手を感染させることがなくなる可能性が高くなることを知らなかった。そもそもゴムをつけずにしたらHIVに感染するかもしれないということに思い至らず、血と精液がついた身体を強く擦って洗って、そのまま眠りにつく。

ここまで観て、正確な知識の大切さと、自分のHIVへの知識のなさを痛感することとなった。
劇中で説明されるペップ、検出限界値未満などの言葉は初めて出会うものばかり。ぼんやり義務教育での保健体育の授業を思い出すが、「同性愛者の男性に多い病気ってどういうこと?」と過去でもぼんやりとしか考えられなかった記憶だけが浮かぶ。

HIVに関する情報をわたしが知って実生活に活用できるか、できないか、という評価基準はここではあまり役に立たない。知識は想像力の源であり、他者への慮りへの源だ。だから、見聞きする必要があるのだ。

そして、ヤってる最中は最高に気持ちがヨくて合意に思えても、その後、自分の身体についた男たちの体液を気持ち悪いと熱いシャワーの中で身体を擦るアダムは、汚された自分の尊厳を綺麗にしようとしているふうにも見えた。作中ではその出来事を「犯された」と表現している。

ふと思う。これって誰が悪いんだろう。ハメを外しちゃったアダム?セーフティセックスしなかったサウナの男たち?サウナカルチャー?HIVに感染しながら生でセックスした人?…多分誰でもなくて、誰でもある。

時間を戻せるなら、彼らはどこからやり直せばいいんだろう。
最近週刊誌でも話題になった性犯罪疑惑のことも頭によぎる。性的同意とは、と。

閑話休題。

休憩中、トイレ待ちをしている間に、背後で2人組の会話。
「ゲイの人たちの話っていうのは知ってたんだけど、ごめんねぇ」
「いやいや」
「エイズの話とは…」

どうやら1人がもう1人を誘ったみたいだ。内容が思っていたよりも重くて、リアルだったのかもしれない。

でもどんな入口だっていい。
いまここでこの物語が物語られることが、当事者じゃないと思ってる者も観ることが、とても重要なのだ。

作中、現代のゲイ・コミュニティの彼らは、語ることをやめない。
「どうせ伝わらない」じゃなくて、主義主張が違っても、相手が怒っても、訣別する可能性があっても、たとえエゴだと頭の片隅でわかっていても、誰が自分の話を聞きたいんだろうと思っても、それを伝えることを厭わない。SNSでじゃなくて、信頼できる仲間内で、生身で、顔出しで、言葉を尽くす。
その努力をする。

物語ることは、継承することだ。『インヘリタンス-継承-』は少し窮屈な現代にあって自分を物語ることへの礼賛であり、激励であり、そうすることこそが、文化を作り、後世に生きる誰かを救うことに繋がる(かもしれない)という今を生きる我々の義務を突きつけてくる。

ネットが発達し、AIがその存在感をメキメキと肥大させ、選択肢も増え、私たちが一生のうちに得る情報量は100年前の人が得るそれとは量、質(偏りも含めて)ともに全く違うものになっているだろう。世界の複雑化とパーソナライズは止まらない。

そんな時代の私たちが、それぞれの立場で、自分の今生きている生を語ることは、多分、きっと、100年後を生きる人々を救うなんて大それたことはできなくても、何かの手掛かりになるくらいはする、んじゃないか。

だからわたしもこの戯曲を観たということを、そこで感じた物を、語ることにした。

物語ることが、わたしの、誰かのためになるかもしれないと願って。


『インヘリタンス-継承-』
2024年2月17日観劇
東京芸術劇場

特に好きだった役者さん:
山路和弘さん 本当にかっこいい。多分3回くらい惚れた。
篠井英介さん 存在感と茶目っけ。観客にとっての救いを担う。
麻実れいさん 圧倒的な説得力。何人分の人生を生きてきたんだ。
田中俊介さん もうこの人がトビー。言葉数が多いのに聞き取りやすい台詞回し。
新原泰佑さん 声色の使い分け、瞬時に切り替わる一人二役。トビーを足蹴にするシルエット、後半の慟哭。
柾木玲弥さん 声がいい。なぜか自然と目が惹かれてしまう演技。


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