生真面目なOLから自由気儘なフリーライターに転職

高卒後OLに、恵まれた就職。
高卒後、明治生命保険相互会社の大阪総局総務課テレタイプ・テレックス室という部署で働いた。高卒なのに高収入、残業は一切なし、終業は確か5時ではなく4時半だった。毎日まっすぐ帰るという生活だったので、お金は貯まる一方だった。
働くまで知らなかったが、テレタイプのキーを打つという職種が私の性に合い、毎日の仕事は楽しかった。

なのに、青春時代の私の日々は充実しているとは言えなかった。なぜか満足できないOL生活だった。何かが足りない……虚ろな毎日だった。

何が足りないのか? なぜ虚ろなのか? よくわからないまま3年の月日が経ち……私は気がついた。
書く仕事がしたい。
そして、決心した。

新聞社勤務に転職→自営業に転職、新聞→広告に転職。
辞表を提出し、恵まれた職にサヨナラした。
母は猛反対した。嘆いた。「退職願」を提出したころはテレタイプ室の先輩と同僚は辞めており、私は室長として後輩二人と働いていた。ビジネス街の瀟洒なビルディングに勤務する末娘を、母は大層喜んでいたのである。

母の嘆きに少し動揺したが、見知らぬ新聞社に電話をかけた。
主婦を読者対象にしている小さな新聞社。広告で賄っているタブロイド判の新聞。募集していたわけではないのに応募し自己PRし面接を受け、採用された。
しかし、そこは半年ほどで辞め別のタブロイド判新聞の編集を担当することになり、21歳の私は念願の執筆・編集職に就いた。

2社目の新聞社では、記事や取材だけではなくレイアウトなどの「整理」も担任しなければならなかった。見出しを考えるのも整理記者の仕事。工場のベテラン職人さんたち相手に植字・組版にも立ち合った。
あまりに忙しすぎたから? 理由は忘れたがそこも辞めて、また主婦対象の別会社のタブロイド判新聞の編集に携わったのち、ライター&エディターとして自営を始めた。

まだ20代前半だったと思う。そのころの日記も残っていないので、はっきり覚えていない。とにかく私は勤務をやめた。
最初から順風満帆だったわけではない。このころのことも何故かよく覚えていないのだが、観光バスガイドのアルバイトをしたりキャディー募集の面接を受けた記憶があるので、四苦八苦していたのだろう。

四苦八苦の期間がどのくらいあったのかも記憶していない。
専門学校で学んでいない、誰からも教わっていないのに広告コピーを書き、ほぼ最初から高収入を得たという恵まれた幸せなことだけがハッキリ記憶に残っている。

20代の大人になっても過去の記憶がないということがあるのだろうか……。
私は小学3年生までの記憶がほとんど無い。
首に定期券をぶらさげてバス停でバスを待っていたシーンと、バスの窓からハリスのチューインガムの看板が見えた……ことだけを憶えている。
3年生~卒業まで田舎の伯母宅で育った。母親が入院という事情で母の姉の家で暮らした。この4年間のことはわりと覚えている。私の子供時代の記憶は小学3年生から始まった。

長かったような…あっという間だったような40年余。
企業や店舗が発行するパンフレットやカタログや会社案内やPR情報誌などの文章を書いた。文章だけではなくデザインもイラストもレイアウトも写真も、印刷を含む企画~納品までを受注することが多かった。店舗に設置してお客様が自由に持ち帰る松下(当時はナショナルと呼んでいた)のPR情報誌の執筆も担当した。
ほとんど企業から直接の依頼だったが、ナショナルは広告プロダクションからの発注。広告代理店から依頼されたグンゼの新ブランドのコピー仕事も楽しかった。毛糸や刺繡糸のハマナカは私が受けていた文章のみの受注から、兄の広告企画制作会社が請け負う企画~納品までに契約を変更することができたときは、うれしかった。
金額を決めたのは兄なのに請求書にクレームがついて談判に行く役目は私に任せる兄に不満を持った。でも、兄も広告企画制作会社の経営者として私に文章仕事を発注してくれた。
企業の部長も店舗経営者も広告代理店の担当者も私からの請求書に1円たりとも値切らず振り込んでくださったが、兄が一番厳しかった。

新聞から広告の世界に転職したのは、兄の影響が多大。新聞社の女性編集長はデスクの上に物を積み上げ、少し空けた場所でタバコを吸いながら原稿用紙に鉛筆を走らせていた。
一方、兄のオフィスへ行けばスカッときれいな環境。新聞社では常に忙しく椅子の前のほうにチョコンと座る癖がついていたので、ちゃんと深く座るように注意された。
兄は、忙しなく立ち働くというより深く椅子に座って考え込んでいることが多かった。元々デザイン会社だったのだが、デザインだけというより企画から完成までの全てを請け負い、請求額は高い。

気に入った。私は新聞より広告の世界で仕事をしようと決心した。

(兄も私も)器用な面があるのだと思う。私はそれをいつから身に着けていたのか知らないが、テレタイプの仕事もすぐに覚えた。キーパンチ技術を習いに会社から指示された所へ数日通ったが、私はほかの方々より習う日数が少なく仕事を始めるのが早かったらしい。
世のなかにワープロが登場したとき、いち早く分割で購入した。教わらず殆ど説明書も読まず、使い始めた。テレタイプ室に勤務していたころは両指全てを使っていたが、ワープロと、その次のパソコンは、両手中指のみのキーパンチ。でも速い。数人からそう言われた。

ちょっと器用な面があるから文章だけではなく、また取材やテープ起こしや校正だけという下請け仕事ではなく、企画~納品まで受注できたのだろう。仕事・収入には恵まれた。
ある企業の社内報を担任することになってからは広告の仕事を受けなくなった。社内報作りに多忙だった。印刷等の外注を含む企画~納品までの契約に毎月50万振り込んでくださった。

兄の倒産。私の失業。
同業のコピーライターから羨ましがられた。名刺にコピーライターと印刷したことはないが、ライター&エディターとして確かに私は同業者から羨ましがられる自営業者だった。
さぞかし貯金はいっぱいできたのでしょうって思う?
いいえ30代~50代の私は借金の返済に追われていた。貯金はできなかった。

次兄は、私が38歳のとき(次兄は私より7歳上)倒産。夫婦で或る会社の寮の管理人に転職した。
会社経営も自営業も、危険をはらむ。私も、クライアント企業が倒産し外注費を支払えなくなったとき、その当時、機械に差し込めば20~30万のお札がすぐに出てくるクレジットカードを何枚も持っていたので、とりあえず其れで支払った。
また少し足りなくなったとき、またカードを差し込んだ。

人生は…社会は、実際に体験しなければ、会得…納得できない。

反省・後悔したころは、借金がかなり膨らんでいた。でも返済し続ける収入があるのは有り難かった。
そして、68歳の或る日、やっと完済した。

これからは貯金できると喜んだのも束の間。どんどん激減していった仕事が、ついに無くなった。クライアントがゼロになった。親戚付き合いのような私に高級アルバイトをさせてくださっていた89歳の元会社社長さんが脳梗塞で倒れ、入院。アルバイトも無くなった。

2017年1月、私は失業し家賃が支払えなくなり、思案の結果、「能登においで」と呼んでくれた姉夫婦の家で、家事仕事を担当することになった。


反省と後悔……。
借金が膨らんでいったことが一番大きな反省と後悔だが、ビルメンの業界新聞に関与する仕事を辞退したり、長く続けた関西電力関係の冊子作りの仕事をほかの人に譲ったことなども後悔している。
柳月堂さんの会長が自ら私の仕事場に来てくださり、箱の中に入れるリーフレット(栞と呼んでいた)のコピーとデザインを発注してくださった。喜んでくださり褒めてくださり、楽しい仕事だった。
でも仕事は長く続かなかった。会長様とのお付き合い・繋がりをもっと大事にすべきだった。「続ける」努力が足りなかった。「繋げる」工夫に欠けていた。気儘過ぎた。

20代~30代の私は世間から嫌われる不倫を繰り返す不道徳な娘だった。お酒もかなり飲むようになり毎夜遅い帰宅。40歳を過ぎても11時を回ると玄関に母が仁王立ち。OLを続けていたらこんなことはないのに……と母は悲しんだ。
私がつぶやく「原因と結果の法則」も、長兄が呟いた「因果応報」も、お金のことだけではない。

現在の思考や行動は、未来の生活に表れる。

明日より今日の悦楽を求めたい。未来より現在の幸せを大事にしたい。
しかし「未来」は重要なのだ。今日が明日に繋がり、現在が未来に直結する。
私はもっと思考し学び、努力し頑張り……そして未来の幸運を求めるべきだった。

奥能登・珠洲市→加賀地方に移転。
「令和6年能登半島地震」が突如、元日に発生した。
姉が肺ガンで亡くなり義兄と二人きりになり、後添えを要望された私は辞退して能登を去り、加賀地方に再移転した。
寂しかったのだろう義兄は、出会った高齢女性と同棲を始めた。
奥能登・珠洲市で二人は、避難、家の損傷、停電・断水……と過酷な日々を過ごしている。
能登を去る前、私は、海のすぐそばに建つ市営住宅で独り暮らしをしようと思い空き家募集に応募したが、抽選に外れた。こんなことを言ったら不謹慎だが、外れてラッキーだった。車を運転しない私は、ネコを連れて避難するのは困難だっただろう。

反省・後悔は多いが、会得・幸運はもっと多い。プラス・マイナスでワンセットだが、私の場合マイナスは、プラスという大きな魚にくっついているコバンザメのようなもの。

近ごろの私は、感謝感謝の日々。

失業して移住する羽目になった私は、仕事で成功はしていない。結果は二重丸というわけにはいかない。「私は晩年型」と根拠のない確信を抱いていたが、現実の晩年は、見知らぬ田舎町で超節約暮らし。
でも、恵まれた職を捨て、行き先不明の列車に乗っている旅人のような転職人生を、後悔していない。
見知らぬ町で、年金収入だけの超節約生活だが、毎日、創作原稿を書き続けている。
「書く」ことが天職と言える自信はないが、キーを打ち込み続けるのは私の生き甲斐……と明言できる。






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