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甲子園決勝、決着!!

※写真は読売新聞オンラインから

日本の夏を彩る行事の一つが全国高等学校野球選手権大会、通称夏の甲子園。今年は慶應高校の優勝で終わった。

高校生たちの熱い勝負は例年の如く我々を感動させてくれたが、今年は試合の内容以外も話題となった。猛暑の中、屋外で行われる大会への賛否。坊主を強制しない高校の複数出場。非効率な伝統は変革しようという近年の世相が、夏の恒例行事に反映されていたようにも見える。

高校生の一競技の大会が、これだけ国民の注目を集めるのは不思議なことである。甲子園がこれだけ特別なのは、野球というスポーツの性質が戦後の国民性に異常なまでに合っていたからだろう。ポジションや打順ごとに与えられた役割があり、塁を進めるために打席で自己を犠牲にする。監督の指示は絶対で、一つの目標のために全員が同じ髪型にして練習に耐える。チームの命運を託されたエースは根性で投げきる。与えられた仕事をこなす、周りとの同調、自己犠牲、根性とはいずれも昭和日本で美徳とされているものであった。それらが反映されたスポーツを未来ある若者が全力でプレーし、国民はそれを見て熱狂する。高校野球とは、良くも悪くも宗教のようなものだったのだろう。聖地である甲子園から開催場所を変えるなど、当時の世論で言えば言語道断だったはずである。

しかし、日本は変わり、野球も変わった。根性論や目上の者への服従でどうにかなった時代は、バブル崩壊やIT革命、リーマンショックを経て遠い昔のものとなった。野球も死ぬ気で素振りする王貞治の時代から、エンジョイしてプレーする大谷翔平の時代へと変わっている。国民性に合致するという意味での宗教性はなくなり、何も暑い屋外球場の甲子園でやらなくとも、という意見も出てきている。野球が神聖視されなくなり、少年の競技人口は急速に減っている。

これまでの結論から行くと、高校野球の人気は右肩下がりとなるはずである。実際、未だ大きな勢力とはいえ、現在プロ野球に昭和ほどの存在感はない。だがそうならないのは、大衆がエンタメとしての若者の頑張りを求めているからだろう。全力でスポーツを頑張る若者を見て勝手に楽しむのは構わないが、それに付随する儲けやメディアの利権に振り回されて大会が変わる、あるいは変われないのはいただけない。夏の全国選手権大会は、あくまで野球をやりたい高校生のための大会である。坊主も長髪も、甲子園でやるのもドームでやるのも、全ては高校生やその指導者、身体の専門家の意見を聞くべき。メディアや視聴者の意見なんざどうでもいい。高校生が楽しく、健康にプレーできるような環境づくりを目指してほしいものである。

-9回裏1点ビハインドが1番アツい-

今日も人生、超カラフル。

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