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北条泰時の母親はだれか?

北条泰時の母親は誰なのか、実際のところ分かっていない。大河ドラマ鎌倉殿の13人では、①頼朝のはじめの妻の八重が泰時の母として描かれた。泰時は頼朝からも重んじられているのでこうした説があるけれど想像でしかない。八重は頼朝にとって敵方となった伊東の娘なので、実際は考えにくいだろう。では➁頼朝の御落胤ではという話もあるけれど、そうなると泰時、得宗家には北条の血が流れていないことになり無理がある。③史料では阿波局とあるけれど、阿波局とは義時の妹、鎌倉殿の13人では実衣のことなのでありえないから別人とされているが、それがどういう女性か記録はない。では④家を記すほどでもない無名の女性だったのかというと、それならなぜ泰時が頼朝からも重んじられたのか、と話は戻ってしまう。

ぼくが考えるに、もしかしたらだけれど③の史料の通り義時と妹の阿波局の子、つまり近親婚の子ということは本当にあり得ないのだろうか。現代の常識にあてはめてありえないとしてしまってはいないか。当時でも異母兄妹なら婚姻はあり得るはず。当時頼朝や義時が鎌倉に入ったばかりで平家も健在、明日の命も知れない中で、ともかくも一族の命をつながなきゃなんて状況がなかったはいえないのでは。鎌倉殿の義時と実衣のキャラクターだと気持ち悪く思えるけどそれは別の話。そう考えるもう一つの理由は、後に阿波局が死去した時に泰時が30日喪に服していること。きっと二人の間には親密な関係があったと思われる。ではその時代に例があるかというと、後に時頼が重時の娘を正室としているのは、祖父の弟の娘だからけっこうな近親婚。その間に生まれるのが時宗で、期待のホープみたいに歴史に出てくる。個人的に思うに、これは重時の人物像にしてはやや強引な感じがする。仮の話、義時と阿波局の前例があったと考えれば納得がいく。一族から伴侶を迎えれば外戚に振り回されるおそれもないし、家の純血種みたいに尊ぶような風潮が、もしかしたらあったかもと思う。

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