日曜日の夕暮れが持つ絶望の魅力について

 日曜日の夕暮れが好きだ、と思う。好きだと言い切れないのは、平日週五日勤務の私にとって、日曜日の夕方は絶望しかないはずだからだ。平日にはできないあれもこれも、なんでもできるような気がして浮かれていた金曜日の夜から一転、結局何一つやり遂げることもできないまま、また憂鬱な月曜日がやってくる。そんな「天国の終わりの入り口」みたいな時間を好きだなんて、ちょっとおかしいような気がする。でもおかしなことに、どうやら私は日曜日の夕暮れが好きみたいなのだ。
 
 大概、日曜日の夕暮れは自分の部屋でぼんやりしながら過ごすことが多い。開け放した窓から入る、夕暮れの匂い。だんだんとオレンジ色に染まっていく空。楽しかった休日はもう終わり。もう少ししたらあのおっちょこちょいな成人女性が織りなす大家族の物語を見ながら明日の仕事の準備をしなくてはならない。どう考えても憂鬱しか生まれてこないはずなのに、金曜日の夜から日曜の夜にベットに入るまでの間で、この時間がいちばん落ち着いている。

 どうしてそんなことが起こるのか、自分なりに考えてみた。そして一つの結論を出すに至った。それは「結局人は絶望が好きで、日曜の夕暮れは平穏と絶望の間のギリギリのところだから」というものだ。

 人は絶望が好き。これに関しては異論は認めない。もちろん人は常に絶望したがっているということではない。私を含め、ほとんどの人が絶望など味わわずに生きていたいと考えている。しかしその一方で、絶望というものには壮大な魅力がある。小説やドラマ、映画やお芝居で人の心を打つのはいつだって絶望だ。一人の人間が平和に暮らし、何の苦労もなく幸せを掴む物語に一体誰が魅了されるだろう。音楽だってそうだ。「好きな人に愛されて、私ってば本当に幸せなんです」などという趣旨のラブソングは、キャッチーだともてはやされることはあっても、心に響くことはない。ラブソングが人の胸を打つのは、「叶わぬ想い」などの絶望が、聴く者の胸をギュッと痛めるからだ。能天気な幸せは一文にもならないけれど、絶望は金になる。つまり絶望というものは、人を魅了する悪魔的な力があるのだ。

 月曜日がやってくるという絶望。そのギリギリのところが日曜日の夕暮れなのだ。私はいつもその魔力に魅了され、夜に飲み込まれるまでのわずかな時間を静かに過ごす。絶望に飲み込まれるのもまた良いものだ。

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