年寄りの生きがい、生きる道

3,4年前、移住先の大分にいた頃、お互いじじいの友人と語り合う中で「お金のないじじいってもはやゴミだな」という言葉がどちらからともなく出てき、今までの人生に対する万感の思いというより無視したいけど受け入れざるを得ない、しかし妙にすっきりした納得感を感じたことが記憶に残っている。
俺は前書いたように、強気をくじき弱気を助ける正義の味方を標榜する目的で大学まで進んだが、その大学で中卒の労働者からどうせおまえらは抑圧する側に回るのだと言われ、それをきっかけにドロップアウトして、今後搾取したり、上に立ち支配する立場には絶対ならないという方針を掲げ今まで生きてきたのだ。
できうる限り底辺で暮らし、そこから見つめる風景が一番真実に近いと思いつつ生きてきた。一番の底辺にはなれなかったし、中途半端はたくさんあるけど、それに近い暮らしを実践しようと思って来た。で、そして今はその人生も生命の残りが少ないじじいになってしまった。
そうして振り返って見ると、今も「じじいはゴミだ」を実践していると思っているし、それでいい、そうやってなおかつたくましく生き、なんとか全うしているなと妙な悦に顔がほころぶときがある。求めた「理想」に近い形で一生を終えそうだなと。これこそ落ち行くロマンだなとも思う。
 
学生の頃、当時の反帝学評という党派の誰が言った言葉か「全世界、全自然を対象化し、自らの感性の解放を獲ちとれ」という「格言」が好きだった。正確なイミは分からんが俺の理解では全世界、全自然の対象化をめざし、何処にも偏らない真理、自らの行動方針を自らが生み出せと理解した。そして俺は自分の立場をその都度確認して、いろいろ見聞し、自らの内からその反応を確かめ、培われた感性を元に生きてきたと思っている。
お金やステイタスで価値を決めたり、経済成長をひたすら求めてきた「欲望」を見直さなければならない。もう地球が保たないと多くの人は知っているはずだ。
そして、長く生きてきた年寄りは、中でもお金のない年寄りはお金では量れない価値観を背負って、社会にもの申して欲しい。
ゴミという表現、その意味は生産性が全くないという事だと思う、しいて言えばマイナスの生産性しかない訳だ。けれどそれはいわゆる世間が評価する事で本人は全然そう思ってはいない。
むしろゴミを有用視し、自らの価値を他に認めてもらう事によって、社会の価値観を定義し直せると思っている。年寄りは長く生きた、もはや残りの時間は少ない。今こそ地球とともに滅びる前に、その価値観を訴え、共有出来るか、それとも滅びに有終の美を見てそのままのロマンを感じるだけにするか、俺たち年寄りは瀬戸際に立っているのと思う。もはや時間はない。

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