戦争は女の顔をしていない

ロシア映画 「戦争は女の顔をしていない」 を観て    
最近、ツイッターをよく見る、その中に性暴力被害者のつぶやきがある。同じ言葉で同じ事を何度もつぶやく。つぶやけるようになるのは、被害からだいぶ経ってからである。読んで最初の頃は「かわいそうに。」と同情の気持ちでいいねボタンを押して次のつぶやきにいった。何回も同じツイートにぶつかる度に、だんだん同情でなくエンパシーに変わってきた。繰り返し、シンプルなつぶやきを見ているうちに多くない字数の中に解決しようのない、長いあいだ消えることのない傷付いた「心」があるのがほの見えてきた。一度あったことはもう取り返しがつかない。
ちょっとくらい、一度位、、、という慰めの言葉、忘れて先に進めば、という励ましの言葉が如何に理不尽で筋違いかがわかる気がするようになった。今までの俺の男の側からの単なる同情だったと思う。
性被害はこの男社会の、差別の構造の一番根っこなのだ。
原始の社会、人間が生きていくためにたまたま「力」を価値基準に据えて進んだために、それが継続して今のこの社会になった。動物を狩るのは、石を持ち上げるのはすごい!と褒めたたえるうちに、それを基準とする社会となった。暴力は社会を構成する手段になり、価値基準になってしまった。社会は複雑なように見えても構造はシンプルなのだ、暴力的な力がその構造を支えているのだ。
もし原始の人間社会が暴力でなく「心地良さ」を価値の一番と、そこから出発し、文明を積み上げてきたら、今のような戦争の終わらない、こんな暴力的な世の中はできなかった。行き詰まりつつあるこの社会をなんとかしたいと思うなら、そこから変えていかないと行けないと思う。
「戦争と女の顔」という映画を見に行った。あのノーベル賞をもらった「戦争は女の顔をしていない」が原案になっているという。1945年、第2次世界大戦が終わった、当時のソ連のレニングラードで負傷兵の看護をしながら暮らす女性と戦地から遅れて戻ってきた女性のお話だ。二人は仲の良い友達通し。日本は国防婦人会で銃後の守りの女性が組織されていたが、ソ連は戦地に男と同じように行くのを奨励され100万人以上の女性達が兵隊として出兵したらしい。二人とも帰還兵だ、その彼女らが戦後戻ってきて、男と違い、性的なあらぬ事を言われ、噂され、悲惨な差別を受ける。彼女らは差別を受け止めつつ、戦争で傷ついた自らの心の再生をも試みつつ、生き抜く事を実践しようとする。こうして書くと暗い映画のようだが、画面の色合いがあのフェルメールの心地良い色合いを思わせ、憧れる日常生活の雰囲気を醸しだす。
差別に翻弄されながら生きようとしている彼女たちに肩入れしているとあっという間に137分が経ってしまう。男社会に翻弄されている彼女たちに幸いあれ!
この映画の原題は「Dylda」(ロシア語のアルファベット表記)か「Beanpole」(英語訳)


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