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アーティストは、見てしまった存在?西洋芸術哲学の源流のひとつ『芸術作品の根源』(ハイデッガー)を読んでみた

『芸術作品の根源』はドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが芸術の本質に挑んだ記念碑的作品です。

哲学を勉強したことのない身からすると、、、
まぁ読むのが平易ではない。。
同時に読んでいるカントの『判断力批判』よりは読みやすいですが、
常に脳みそをフル回転させていないとついていけない。

今回はそんな難書を、自分で整理するためにもまとめていきたいと思います。とその先に進む前に、ゴッホの靴の絵とギリシャの神殿の画像をご覧ください。この難書を理解するためには、常に脳内で再生できるようにしておくと吉です!

ゴッホ:『一足の靴(古靴)』
パルテノン神殿の遠景

そもそも芸術とは何か?

何かよくわからないものを「アートじゃん」と言葉にする方。メディアに出ている方も含めて多いですが、僕は大嫌いです(笑)。

アート(芸術)=わからないものという方程式が当たり前のように存在している。ある意味、思考することの放棄をしていること。そして一緒くたにグループ化されていること。これが僕は気に入らないのだと思います。

ハイデッガーは、まず芸術とは何かからスタートします。それは芸術「作品」と認識しているものの集合体から獲得できるものではなく、また空から降ってくるものでもない、といいます。

芸術と親和性の高い、美的体験といわれるものの中には、物的な要素が欠かせない。

建築作品の中に存在する石性。
木彫作品の中に存在する木質のもの。
絵画作品の中に存在する色彩的なもの。
言語作品の中に存在する音声的なもの。
という風に。

物的なもの+付帯する別のものが、芸術「作品」を成しているのではないか。つまり物的なものが、芸術「作品」において、本来的であり、下部構造なのではないか、と。

物とは何か?

そこで論考は、物的なものに進んでいきます。
まず物を、自然物と使用物に分けます。
ここで自然物を、物的なものの中でもより本体的であると仮説します。

例えば岩。岩は、硬く、重く、不定形でザラザラした実体であるとします。

さてここで岩は、自然物と言えるのでしょうか?

ハイデッガーはここでNOを突きつけます。

というのも、岩が「硬い」ということ、「重く」ということ、「ザラザラ」していることは、人間が触ったことで、「不定形」であることは人間が視ること、つまり受容的器官で得た情報の多様性を統一したに過ぎない。それは感情ベースで理性的なものであり、実体とは距離が生じているため、自然物とは言えないのではないか、というのがハイデッガーの主張です。

なるほど。わからなくもない。
人間に限らず、動物は感覚を持っているわけで、そこで情報を得て、判断する。人間はそこに感情という情報を加えている。本当に自然物と呼べるものは、存在するのでしょうか。。

先ほど実体とは距離が生じている、という表現がありました。ではそれに対して、より直接的なものとは何なのか?

それは常に、ただある必要がある、とハイデッガーはいいます。そしてそれを、形相を伴った質量として表現します。この形相が質料を指図する場合があります。例えば、斧、靴、船。それは有用性を生み、道具となる。

道具とは世界との接点

しばしば「これを芸術と呼べるのか?」というような意見が生まれる作品が、生まれます。見た目はただの道具(広い意味での)ではないか、と。

道具としての存在は、形相によって指図された有用性ゆえに成り立ちます。その有用性というのはどういうことか。例えば靴で考えてみると、、

・土を踏む、土がつく
・石が挟まる
・濡れる
・草木がひっつく

靴を履くことによって、こんな現象が起きます。しかしそれらは、

・土を踏む、土がつく
 =土との接触(湿気の存在)
・石が挟まる=石との接触
・濡れる=水との接触
・草木がひっつく=生態系との接触

と捉えることができ、靴は、信頼性を担保する情報の集合体と化す。と同時に、信頼性という習慣が、有用性を担保しつつ、失わせていく。この繰り返しで荒廃した結果、単なる道具にさせていく。

このように習慣的に得られた信頼性が、本質的な存在へと昇華していくのではないか、というのです。

存在する物としての靴が目の前にある時、存在するものとしての靴に他ならないものへ(つまりそれらしい在り方へ)と生起している。

芸術「作品」において、真理の生起が活動している状態である必要性があるのではないか。

物→作品というベクトルではなく、作品→物というベクトル。このような仮説で、第一章が閉じられます。

「大地」という表現

「大地」と言われると、サバンナや、大草原、砂漠のような、開けた土地のようなものを思い浮かべますが、ハイデッガーが用いる「大地」は一味違います。

冒頭の画像、石造の神殿を思い出してみてください。ある土地に神殿が立ち現れます。そしてその神殿一切を、神殿として、神殿のうちに返還し、保蔵する。そのことを「大地」と呼んでいます。

ちょっと、何言っているのかわからない。。
もう少し咀嚼していきましょう。。。
神殿が建つことで何が起きるか?
神殿の右側に木が立っていたり、
神殿の近く削られた石の山があったり、
神殿の裏側から太陽が常に登ってくる。

つまり様々な事物に、初めてその外見が与えられることになる。視るものたちに対して初めて見通しを与える。これを視界と呼び、それ一切を神殿は内包し、保つ。こう考えられるのではないでしょうか。

「作品」が賛美される理由

この作品は傑作である、名作である、遺産である。という文句を聞かれたことは多いと思います。

「これだけ見ておけば大丈夫」というような趣旨で押し付ける教養本(そんなもので教養を持てると思っていたら大間違い)のことも僕は大嫌いです。

言葉が過ぎたかもしれません。。
ただ「作品」が賛美され、賞賛されるのはなぜなのか。ただ自分にとって美しいという表現に出会えた時にするものである、ということ以上に、考えたことは、ありませんでした。

ハイデッガーは、
「作品」そのものが、その存在において要求しているから、といいます。

お、投げ出したのか?と思いきやこのように続きます。

「作品」自体は、その「作品」存在において立てられる(生まれる)ものだから。

うん。まだ難しい。
「作品」は、ひとつの「世界」を開示し、その世界が支配しつつ滞留するように保持するものだから。少し見えてきた気がします。

神殿に置き換えて考えてみると、
「神殿」が、ひとつの「世界」を開示し、その「世界」を保持する。つまり「大地」である、と。

「世界」的であるということ

よく世界観という言葉が使われます。この展示は、この映画は、このお店は、このホテルは世界観がいいよね〜と。なんとなく使ってしまうこの「世界」という言葉。そもそも「世界」的であるとはどういうことなのでしょうか。

「世界」の反対語があるとすれば、無「世界」でしょう。ハイデッガーは、無「世界」的な物として石や植物を例に挙げています。
それはなぜか?石や植物は、固着した環境に所属しているから無「世界」的であるというのです。

ということは、「世界」的なものとは、特定の環境に固着せず、漂い、彷徨い、移動していること。そしてその動的な状態が獲得する情報。これらが固有の必然性として立ち現れる。これが「世界」的であるということになります。

冒頭の靴の絵を思い出してみてください。
靴を描いていますが、その靴は「世界」的でしょうか。

答えはYES。
靴は、土や石、水や草木との接触によって情報を獲得しているからです。
その情報が信頼性として道具に加わる。
「世界」的であり、本質的な存在としての靴が現れるのです。

「道具」と「作品」を一旦、整理。

「道具」と「作品」について、こんがらがってきました。「道具」とは、「道具」として優れていればいるほど、有用性のうちに消滅していきます。斧はそのうち石を砕けなくなり、靴は底が減ってくる。役割を担うことによって、消費され、荒廃していくのです。

一方「作品」はどうか。
今一度、神殿を思い浮かべてください。
石という素材は、神殿を構成する上で有用性を持っています(役に立っている)。と同時に、輝きを放っている。時間が保存され、安らう。つまり消費はされず、そこにあり続けている。

「道具」と「作品」は、消費という観点から、明確な線引きができるわけです。

作品における「真理」とは何か?

真理、、真なるものの本質。。
壮大過ぎて、僕の頭では到達できそうにありませんが、頑張ってみます。

なんとなく本質というと、
隠されているもの
であったり、
物事の核
と思い浮かべます。

それをハイデッガーは、存在するものの不「伏蔵」性を鍵として話を進めていきます。聞き慣れない「伏蔵」という言葉は、表に現れないで潜み隠れていること、を表します。とすると、不「伏蔵」性は、潜み隠れずに表に現れていること、と認識しておいて間違いはなさそうです。

対象が「伏蔵」性を伴うということは、視るものを拒絶していたり、視るものに対して偽装しているということであり、視るものによる見間違えや、し損ないの発生を促します。

存在しているものは、たしかに出現しています。靴は出現しており、確かにそこにある。
ただその靴の出現は、靴が本来あるのとは違った在り方で、それ自体を告げている可能性がある。

この靴を読む鍵は、情報の集合体としての「世界」であり、その「世界」を保存しようとする「大地」という力。開かれている「世界」と、閉じようとする「大地」の止まることのない抗争が、潜み隠れずに表に現れている(つまり不「伏蔵」性を伴っている)状態であること。これが「作品」における、真理なのではないか、という論考に達します。

ちなみに、靴が「世界」を伴うことで、輝きを放ち、「作品」全体の輝きが増して得られるもの、これが美である、とハイデッガーはいいます。

つまり美しいから真理があるのではなく、真理があるから美しい。表層的な輝きなのか否かを見極める力が視るものにも求めらている気がします。

そういえば2023年の春、スペインのグラナダを訪ねた際に、出会った日本人フォトグラファーの方が言っていた、「美の判断軸が必要よね」という一言。美の裏にある真理を捉える力。これが芸術家・表現者にとって一流と二流を隔てるものなのかもしれません。

芸術家は、発現させる存在?

だいぶ理解が深まってきました。
最後の章、真理と芸術編に突入です。

まずハイデッガーは、テクネーという概念を提示します。テクネーとは、現前するものを、現前するものとして受容することをいいます。これはある意味、現前するものを見てしまっているとも言えます。見てしまったものを発現させることによって、生み出されるもの。それが「作品」です。

仏教思想の「空」の概念とのリンク

元からもっている情報と、新情報が重なった時のゾワゾワする感覚。
身体が熱くなり、かつ浮いているような感覚。
そんな経験お持ちでないでしょうか?

恐らく簡単ではない、このテクネーの概念に接した時に、この感覚に陥りました。というのも、少し前から興味関心を抱いていた仏教思想における「空(くう)」という概念に近い捉え方だと、感じたからです。

仏教思想において、全てのものは「空」である、という思想があります。神も動物も、草木も、今この文章を打っているものも、その隣にあるコーヒーも全て「空」でしかなく、同等・並列である、と。そこに「私」という主体よる「縁」という、働きかける力によって、認識可能な結果として、世に出現している「果」を見ているに過ぎない。この思想をインプットしていました。

この思想とテクネーを基礎とした「作品」の概念との重なり。一気に理解が深まりました。

「創作」とはどういうことか?

「作品」という言葉とよく併用されるのが、「創作」という言葉です。芸術家はその「創作」活動を、ポートフォリオにまとめて、「世界」を構成していくわけですが、このテクネーを基礎とした「作品」の概念において「創作」するとは、どういうことなのでしょうか。

少し前の話題に一旦戻ります。
「真理」は、情報の集合体としての「世界」と、その「世界」を保存しようとする「大地」の抗争・闘争によって生まれるものとありました。この抗争・闘争というのは、一方が他方を打ち負かすものではなく、ぶつかり合うことで、より上位概念に昇華していくという意味です。この抗争・闘争によって生まれた亀裂。それを形態として発現させる。

つまり真理が形態として発現されるプロセスが、創作されるということと言えます。さらに言えば、開かれている「世界」(不「伏蔵」的)と、閉じようとする「大地」(「伏蔵」的)の止まることのない抗争・闘争を、見てしまった結果、創られてしまっている、表現されてしまっている。存在するものの不「伏蔵」性が生起し、そこに存在するという衝撃。これが芸術における真理なのではないか。その表現のことを、広い意味での「詩作」としています。

「詩作」の形態

芸術における真理を表現する「詩作」。
その形態として存在するものが、詩であり、建築であり、音楽である、とハイデッガーはいいます。これらは、見えてしまったものについて、言えることを準備しつつ、同時に言えないことを言えないこととして世界にもたらしています。音楽の世界では、休符(音を演奏しない箇所)も音楽である、といいますが、まさにこの考え方にリンクしてくるのではないでしょうか。

ハイデッガーはこの形態の中でも、言葉を伴う詩は、より「詩作」的であるとも述べています。というのも、言葉によって命名されるということは、存在するものを存在するもとのして呼び出す行為であり、不「伏蔵」的であるためです。

真理における3本の樹

真理を構成する3本の樹(本文中では”樹立”という言葉だが、説明しやすいので、ここでは”樹”とします)の存在をハイデッガーは主張します。

❶贈る
不気味で途方もないものを与え、安心できるもの、安心できると見なしているものを奪い・壊す

❷根拠づけ
歴史的な物としての現存在が、既に投げ入れられている大地を閉鎖する

❸原初≠原始
創作は取り出しであり、汲み取りである。
安心なものとの闘争の充実、という終焉を内包している。

これらによって成る真理を、開きながら、投げ返し、閉じようとする闘争によって生まれる亀裂を、発現させることが「詩作」であり、結果として生み出された形態が、詩であり、建築であり、音楽である。つまり「芸術作品」と考えることができる、のではないでしょうか。

最後に

芸術哲学の根源の一冊とも言える本書を、完全に理解できたとは思っていませんし、この先の完全に理解することはできないかもしれません。ただ今後歩んでいく中での、思考の筋みたいなものは、ひとつ加えることができたと思っています。

違う解釈や、正しい知識をお持ちの方は、是非ご指摘いただけますと幸いです!

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