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「愛」って言葉を免罪符にしないでくれ

「愛」という言葉を免罪符にすれば、相手の嫌がることをしてもいいのか?「愛」という言葉を免罪符にすれば、自立を妨げて良いのか?

私はずっと、親の過干渉に悩んできた。「愛」という言葉を振りかざして、私の意思など関係なく、「自分がしてあげたいこと」を押し付けられる。

かといって、助けてほしい時に助けてくれるかというとそうではない。助けて欲しい時に限って突き放され、「そんなこと言われたってどうしようもない」と話も聞いてくれない。

自分がしてあげられることなら、相手の嫌がることでもする。自分の能力が及ばなければ、「そんなことは自分で解決することだから」と無関心を決め込む。「してあげてる感」が出せればそれでいいのではないかと思う。

これが親か私が生きている限り続くのかと思うとついに我慢が効かなくなって、あることをきっかけに感情が爆発した。それからしばらく両親とは連絡を取ってない。一度連絡が来たが、どうでもいい内容だったので無視した。


そんな矢先、私が抱えていたモヤモヤに似た感情が綴られている記事を見かけた。「愛を正義とする風潮」とは言い得て妙だと思った。

両親の過干渉について他人に相談する時、大抵は「親も心配なんだよ」「実子なんだからしかたない」などと言われる。「今まで育ててきてもらったんでしょう」「困った時は助けてくれるんだから」などと言われても、契約した覚えのないサービスに対価を支払えと言われているような気分になる。

はたして「いらぬサポート」は愛なのか?という議論は一旦置くとして、「愛」と名がつけば何をしてもいいことになってはいないかと疑問を抱く。

例えば、パターナリズムというものがある。

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。

パターナリズム-Wikipedia

「本人の意思は問わずに介入・干渉・支援すること」は、まさに私が両親にされていることとぴったり当てはまっている。まあ、私はいい大人なので弱い立場というわけではないし、これには当てはまらないかもしれない。

ただ、私には自閉症を持つ一つ下の弟がいるのだが、弟に対する接し方は、まさにパターナリズムと言えるものだと思う。

靴の踵を踏んでいるのを見れば、しゃがんで直してあげる。下着がちゃんとしまえてないのを見れば、入れ直してあげる。髭を剃るのが遅いからと、髭剃りを毎朝やってあげる。

そんなことしなくたって、言えば弟は自分でできる。自分ではなかなか気づけないし、人より時間がかかる。髭剃りなども上手にはできないけど、丈夫にできないだけで自分でできるのだ。

なんでも先回りしてやってしまうせいか、やればできるようなことも「できないよ」と言うようになってしまった。自立を妨げているばかりか、自信まで奪っている。

ことあるごとに、「やってあげるよりも、自分でできるようにしてあげる方が弟のためになる」と伝えていたが、一切耳に入っていない様子だった。「こんなに愛情を注いであげている」と言うのをパフォーマンスとして見せたいだけなんじゃないかと思ってしまう。

人に相談しても、「子どもかわいいからやってあげたくなるんだよ」で終わりだ。他人様だからしょうがない。けれど、それを言われるたびに少しずつ絶望の色は濃くなっていった。

かわいいからやってあげる?本人の意思は関係ない?
私たちをぽぽちゃんやりかちゃん人形だと思っているんだろうか。

母方の祖父はこの状況をまずいと思って口を出してくれていた唯一の肉親だったけれど、数年前に他界した。もう誰も口を出してくれる人はいない。当たり前だ。責任を取れないことに普通人は口を出さない。


私は優しい人間でも情に厚い人間でもないから、もう諦めた。できる限り関わらずに生きていくことに決めた。祖母や弟、猫たちには会いたいけれど、それ以上に両親に会いたくない。

「ここまで育ててもらったのに感謝の気持ちはないのか」と思われるだろうし、実際何人にも言われた。外野になんと言われようと関係ない。そんな言葉で傷つきもしない。なんの責任のない言葉だから。

連絡を取らなくなってから、ここ数年で一番気持ちが落ち着いている。肩の荷が降りた感じで、毎日楽しくやっている。

数ヶ月前、実家は結局落ち着くみたいな記事を書いたけど、一時的な雨宿りに適していただけだった。衛生環境が悪くてそれぞれ関係のギスギスした人たちがいるようなところ、雨が降っていない限り居座りたくないだろう。


「親に感謝すべき」と言うのはわかる。私の場合は金銭面では何不自由なくここまで生きてきたし、教育面でも大学まで出してもらった。それでうだうだ言っているのは自分でもどうかと思うところもある。

しかし、生活に不自由していなくても、将来の生活に不自由が出るような扱われ方をしてきたことに違いはない。責任も取れないのに依存させるようなことを「愛」という言葉で正当化されてはたまったものではない。

その「愛」、迷惑です。

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