見出し画像

年をとったら自己満足で

年齢を重ねると、どうしてもそれまで着ていた服が似合わなくなる時がきます。

私は、5,6年前でしょうか。
突然何を着ても似合わない、何を着ても満足できない、という時がやってきました。
カジュアルなものを着れば安っぽく見え、といって高価なものを身につけても老けて見える、では新しいものを着ればよいのかというとそうではない、というどうにもならない状態です。
自分ではどうしたらよいかわからず、同年代向けの雑誌などで紹介されるファッションを手当たり次第に真似するようになり、当然のことですがかなり散財しました。

そして急に最近になって服が似合うようになったのです。
散財の努力の結果ではありません。
昔買った、あるいは買ってもらったり譲ってもらったりした服のうち、どうしても捨てられなかった大切な服やアクセサリーなどが、実は似合うことに気づいたのです。
もちろんそれらは、昔の私にとっては「清水の舞台から飛び降りる」くらいの気持ちで買ったものや、親や祖母や親戚から「貴女に似合うと思う」と譲られたものですので、かなり高価なものではあります。
けれどそれらは長い間クローゼットや引き出しの中に眠っていました。高級なものなのでもったいない、というのもありましたが、何度身につけようとしても似合うと思えなかった、というのが大きな理由でした。

今になってみればわかります。

「他人の目」で見ていたから、それも私に関心のない、あるいは意地悪な「他人の目」で自分を見ていたから、似合うと思えなかったのです。
それと、もう一つの理由は、私にそれらの服を着る準備、言ってみれば「覚悟」ができていなかったから着ることができなかったのです。
「他人の目」というのは、つまり流行にあっているか、目立ちすぎないか、ほめられるか、認めてもらえるか、笑われないかといった「承認欲求」からくる視点です。
大好きな人が「素敵」と言ってくれることよりも、通りすがりの今後会う可能性がない、友人になる可能性がゼロの他人の、陰湿な視線の方を重視する、悲しい目です。
私は、そうした目を何十年も持ち続けていたのです。

そして、ある時、重要なことに気づきました。多数の人が似合うと言われている服が、実は自分には一番似合わない、ということです。これは別に一般論ではなく、私が高級志向だということ(ある種、そうかもしれませんが)でもありません。
私の顔立ちや体つきは、日本の大多数派に向けて作られている服に向いていなかったのです。もちろんモデル体型でもなく、絶世の美女でもありませんから、似合わない服を着こなせるわけがないのです。
そして、亡くなった両親が私によく言っていた言葉を思い出しました。
「貴女は個性的だ」
「貴女には華やかなものが似合う」
「はっきりした色が似合う」
「大柄なものがいい。小柄の模様は似合わない」
「大胆な柄が似合う」
そして「貴女はきれいだ」と。
思えば私は、そうした言葉を全て無視するように、没個性の、周囲と同じような服を着て、目立たないように、それなのに美しいと言われることを渇望しながら生きていました。
時折「その服似合う。素敵」と言われるとき、まったく周囲とは違う、華やかな大胆な柄の服であることがほとんどでした。そうしたときに言われる「貴女にしか着られないね」といった言葉を、私は称賛とはとらえず、あるいはとらえないようにして、「目立ちすぎている」「あてこすりだ」と変換して、その服をなるべく人前では着ないようにしていました。

それでも、それなりに若い時は、似合わなくても若さで着こなす勢いがあるというものです。
その「勢い」が、ある時なくなるのです。
それが「何を着ても似合わなくなる時」です。
似合わない服を着てきたのですから、当然と言えば当然です。
そして、先に述べた散財の時を過ぎ、「どうせ似合わないのだったら、好きな服を着てやろう」と、しまいこんでいた服を身につけたとき、皮肉なことに自分がとても美しく見えることに気づいたのです。
数十年前に購入したものや、祖母や大叔母、そして亡くなった母が身につけていたものなどばかりですから、流行に即しているわけがありません。
今ではほとんど見かけない大胆な色づかいのシルクのスカーフ、触るとぬめりを感じるほど柔らかで艶のあるカシミアの大判ストール、飾りのついた帽子、金糸を織り込んだラメ入りのスカート、赤を基調にしたツイードのスーツ、深紅のロングコート。
どれも着ると、同じものを着ている人はなく、街中では人目をひきます。

昔、似合わないと思いながらもおそるおそる着ているときには誰にも言われなかった言葉を、最近聞くようになりました。
「きれいな赤ですね。こんな赤は、最近のコートにはないですね」
明らかな称賛だと、見た瞬間の相手の目の輝きとため息まじりの声からわかります。
もしかしたら、昔もそうした目で見られていたのに、気づかなかったのかもしれません。
が、おそらくは、私の方に、その服を着る準備と覚悟ができたから、服も自分の美しさを最大限に発揮してくれるようになったのだと思います。
もちろん、若さも肌や髪の美しさも、今となっては過去のものです。
高いヒールもめったに履きませんし、コンタクトレンズはずいぶん昔にやめて黒縁の眼鏡です。
それでも、自分に一番よく似合い、自分が大好きな服を着ている、自分という人間を、私は今、とても美しいと思っています。

私は先ほど「準備」と「覚悟」と言いましたが、それはこういう覚悟です。
一つは、これまで述べたように、他人がどう思おうと、他人の目にどう映ろうと、自分が好きで自分に似合う服を着る、という覚悟です。
もう一つは、身につければ全て傷んでいく、それを受け入れる覚悟です。
着たらクリーニングに出し、傷んだら修理に出す、その手間を惜しまない、そして、もはやどうにもならなくなったら手放す、そうした覚悟です。
もったいないとしまいこんでいれば、服も鞄も靴も新品同様でしょう。手間もかかりません。
しかし、それらが本当の美しさを発揮するのは、身につけたときです。
すべてのものは、いずれは消えます。美しいものをしまいこんでいても、それらがずっと残っていても、身につける自分は確実に消えます。
何十年後か、何年後か、何か月後か、あるいは明日か、もしかしたら今日かもしれない。
皆、死ぬのです。
何も持ってはいけないのです。
美しい思い出すら、消えてしまうのです。
だったら、今、この瞬間、好きなものを身につけて生きよう。
好きな服を着て、深紅の口紅をひいて、ピカピカの靴を履いて出かけよう。
そう思った時、私は覚悟ができました。
そうしたら、新しく買うものも似合うものになりました。皮肉ですね。

みんながみんな、大胆で華やかな服が似合うわけではありません。それがよいというわけでもありません。
カジュアルな服が似合う人がいれば、繊細な小柄模様を着るととても可愛らしい人もいます。私は大胆な柄や色が似合いますが、体にぴったりしすぎるものや肌を出す部分が多いものは若いころから似合いませんでした。そういうものがとても似合う人は素晴らしいと思います。
今の私の一番のお気に入りは、黒のタートルに黒のスカートかパンツを穿き、大判のスカーフを巻いて赤のロングコートを着る、というものです。
時には黒いコートにして、全身黒で統一し、小ぶりの真っ赤なハンドバッグかゴールドのショルダー、あるいはターコイズのレザートートでアクセントをつける、ということもあります。
雪が降ったら、今年買った黒いボアのロングコートに黒いブーツをはいて、濃紫のカシミアマフラーをして出かけましょうか。

自己満足でよいのです。

年齢を重ね、今日を大切に生きるためには、自己満足で、自分の好きなものを選び身につける、それが一番だと、私は思っています。

もし、今日、すべてが終わっても、よい人生だったと思えるために、私はそうやって生きていきたいと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?