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発達障害の説明 ー実体験編①ー

今日書いた「はじめに」

1.今日のできごと


こんにちは。今日の記事2つ目。「発達障害の説明」と銘打っていますが、かんたんにいうと、発達障害体験記です。

十数年ほど前、わたくし、大人になってから「発達障害」と診断されたのですが、診断されっぱなしで、「それで結局どうすんの?」という受け止め方が全然わかりませんでした…。「診断あって支援なし」みたいなケースよくあるんですよ、と、友人の精神科の先生から教えていただいたのを覚えています。

最近まで通院していた東京の先生も信頼していたのですが、ちょっと私がかなりの体調悪化で外にでれなくなってしまい、訪問の先生に変わって、「これからの支援について考えるために」再検査を受けました。発達障害に詳しい先生らしくて、わかりやすくてとてもいい先生のように思います。

今日の検査ですが、むずかしい歴史的な事実ははすらすら答えられるのに、
(「エカテリーナ二世について説明して」といわれて、「あ、ロマノフ朝ロシアの啓蒙君主時代の女帝ですね」とすぱっといくとか)

「りんごの意味を説明して」みたいな問題が出て、「りんごの意味ですか? 属性をいえばいいですか? それとも、りんごの存在理由ですか?」
みたいなふうにかえしたり…。難しく考えすぎ…。

積み木とか絵の問題は相変わらず壊滅的だったり…。まあ、最初のときより「混乱せずに」受けられたので良かったです。結果は1ヶ月後だそうですが、なんというか…。

2.この記事について


この記事は少し前に完成していたのですが、大人になるまで「発達障害」と診断されなかった私の体験記や今後についての考察が中心です。

ただ、すっごいながいです。

全体構成を言うと、「実体験編」と「これから編(仮題)」にわかれています。

実体験編①は、小中高、つまり受験戦争に巻き込まれた自分です。10000字ほど。

実体験編②は、大学卒業から就職、つまり現在までの記録。(これも7000字くらいまでできてます)

これから編というのは、いろいろ変わる雇用のあり方とか、どのような支援があるかとか、自分なりに調べた「発達障害」を取り巻く環境の変化をまとめたものです。役立ちそうな考察中心ですので、ぜひご期待ください。

「はじめに」もつけたのですが、なんかかっこつけすぎだなぁと思い、「今日のはじめに」を別につけることにしました。

ちょうど月曜日から火曜日にかけて、18時間ぶっつづけで17000字書いてたので、めちゃくちゃです。誰かの役に立つかもしれないと期待して、全体公開で残します。ご興味のある方はぜひお読み下さい。

目次いきます。


はじめに


自分が陥っている「状況」について説明するのに、「病気」だということほど簡単なことはありません。今X(Twitter)をひらくとトレンドにちょくちょく「精神科」とか「メンクリ」とか、何らかの「精神疾患の名前」があがるほど、心の「病気」は流行っているようです。私自身も、どうやら生まれながらにして流行っていたのか、何も知らずに育ってきてとんでもない「状況」に直面してばかりでした。

今まで私はその「状況」で体験した自分の「心情」を「文学」の手法で「表現」することで、なんとなく理解してもらおうとしてきました。「文学」を今も辞めたわけではありませんが、あるとき急に興味が湧いて、「もし今の状況を「表現」などせず単に「説明」してみたら一体どうなるだろう」と真剣に考え始めたのです。

いまのわたしを説明するのにとても便利な言葉として「発達障害」という言葉があります。「病気だ」と言う人もいます。あるいは「個性だ」と考えようとする人もいます。製薬会社の金儲けなど、何かの目的で作られた「概念だ」ととらえる人もいるでしょうし、現代の社会が抱える一つの「問題だ」と報じる人もいるでしょう。いずれにせよ、「障害」と言う名前は、いい響きの言葉であるはずがありません。(最近、新しく名前が神経発達症に変わったらしいですが…)。

私自身が「発達障害」になったつもりはありませんが、そう呼ばれるようになった時があります。実際、大人になって検査結果からそう「診断」され、そのまま現在まで、私を表す一つの言葉として確かにそう「記載」されてきました。むしろ今では、「発達障害」であること以外に、確かなことが何一つないくらいです。歌人? 物書き? フリーランス? 労働者? どれも当てはまりません…。

しかも「発達障害」と呼ばれるようになってから、それが一体、具体的にどういう種類に分類されて、合併している他の精神的な問題は何なのか…。現代の専門家ですらまだ正しく鑑別し、詳しく解明できるわけではないという、とても困った状況になっています。

私も、自分の状況を説明するのに、「病気」ですと説明するのはとても不正確な気がします。「個性」ですと説明するのも、しっかりと自分の力で生活している人に対して、とても不誠実な気もします。

客観的にどう説明できるのか、いろいろな視点を視野に入れつつとにかくもう、すぐにでも書き始めようと思いました。

私は発達障害という言葉で今、たしかに「説明」されているかもしれません。では私自身は私のこの「発達障害」を「説明」できるでしょうか。私はまさに他でもないこの、私の「発達障害」をどう説明すればいいのでしょう。

なんだかわからないですが、書き始めてから、14時間くらいぶっつづけで書きました。その後書かれた「説明」を読み返して、本当に、まだまだまったく足りないことに気づきました。

しかも、この「説明」が、同じ言葉の人に当てはまる「共通の体験」になると、確信できそうもありません。同じ「発達障害」の人をみても、あまりにも多様すぎるのです。「私とあなたは同じ「発達」さんですか?」 と聞くと、あまりにも馬鹿な質問にしかみえませんし、おちょくっているようにしか聞こえませんしね。

つまり、万が一同じ状況の人が読んでも、必ずしも「役に立つ」説明になるとは全く思えません。そのくらい、「発達障害」には様々な方がいます。あらかじめご注意ください。当然、私の体験や考え方が、発達障害の方たちを代表するわけもないですし、代表するつもりも到底ありません。しかし、「発達障害」の一つの例として終わるような、意味のないものでもないでしょう。私は「発達障害」ではなく、ずっと人生を生きてきました。当然、他のどの方もそうです。「発達障害」を生きたわけではなく、人生を生きてきたのです。その方のご両親をはじめ、サポートしてきた方たちも、「発達障害」ではなく、その方の今後の「人生」について思いを寄せていると思います。

このあともつづく「説明」を何度も推敲し、校正し、AIにもチェックしてもらって出力し、さらにまた何度も読み返して、ふと、これはそのまま私が体験した「歴史」なのだと思いました。私はそれまで、「発達障害」と関係なくずっと生きてきたのですが、あるとき急にそれがこの四文字の熟語に置き換わったのです。

私は私を取り巻く「現在」について説明し、困難なことも理解してほしいと思っています。しかし本当は私自身の「未来」ついての説明に、より多く労力を割きたいという気持ちが、すごく強くあります。

まだまだものすごく長い説明文になりそうです。まず、「体験編」を半分にして①としましたが、それだけでもすでに1万字を超えました。このままのペースで設計図どおりに説明すると、そのまま③か④くらいまで続きそうです。

そもそもこんなことをふと思いついて急に書き始めたわたしは、文章の企画・設計者としても、実際の書き手としても、noteの利用者としても、完全に失敗している気しかしません…。(これで仕事が舞い込む気も全然しない…)

このnoteの文字数をみて、この文章が最悪④まで続くかもしれないと、お考えください。

しかもここからようやく本編が始まります。そのこともぜひ、お考えあわせください。

長い長い説明のはじまりですが、どうぞよろしくお願いたしします。

私からみた発達障害

1.発達障害と私

あらためましてこんにちは。「~と私」という見出しは、江藤淳みたいで格好いいなあ、と思う私です。実際に、戦後を代表する文芸評論家だった江藤淳の「戦後と私」や「アメリカと私」は、時代を象徴するタイトルでありました。ただ私の場合よりにもよって「発達障害」…。ある意味で時代を象徴してはいますが、あまりは好きじゃないな、とは感じます。

ご存知の方も多いと思いますが、私はかなり長い間、精神疾患で苦しんでいます。正式な診断名は医師によって変わることがありますが、少なくとも何らかの発達障害を持っているのは間違いないようです。

発達障害(最近、「神経発達症」と病名が変わったそうですが…)には、大きく分けて4種類あるそうです。専門家の方が挙げる「主な特徴」を聞いて、「うーん…。どれも当てはまる」というのが当事者である私の感覚かもしれません。

注意欠如/多動症(ADHD)の主な特徴
「忘れ物やミスが多い」
「片付けや掃除が苦手」
「ぼんやりしていることが多い」
「衝動的に行動することが多い」
「思いついたことを、そのまま話してしまう」など

自閉スペクトラム症(ASD)の主な特徴
「空気が読めない人が多い」
「人の気持ちを読み取るのが苦手」
「ひとり遊びが多い」
「こだわりが強い」
「感覚刺激に対して過敏すぎたり鈍感すぎたりする」 など

発達障害の種類
・自閉スペクトラム症(ASD:Autistic Spectrum Disorders)
・注意欠如/多動症(ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorder)
・学習障害(LD:Learnibg Disability)
・発達性協調運動障害(DCD:Developmental Coordination Disorder)

参照:発達障害の基礎知識|「ASD」「ADHD」「LD」の種類・症状・原因は?
それぞれの特徴も解説|
HugKum(はぐくむ):小学館

そもそも発達障害はいくつかの種類が「混ざる」ことが多いらしいです。私が当てはまる発達障害は、果たしてADHDなのか?それともASDなのか…。正確にはわからないところがあります。

「片付けや掃除が苦手」 で、「衝動的に行動することが多」く、 「思いついたことをそのまま話してしまう」ADHDのような特徴も思い当たります。にも関わらず「こだわりが強」く、好きなことにはのめり込みがちで得意なことは得意、というASDのような特徴もあると感じます。

最近新しい病院に変わり、発達の問題に詳しい先生に診てもらえるようになったため、45歳になって「もう一度正確に検査をしてみよう」ということになりました。もう今さらという感じで、私にはあまり診断を確定させる意味がわからないのですが、サポートする方たちにとっては、これからを考えるために必要な情報らしいです。

2.「性格」だと思ってましたー小中高の頃の私と受験戦争ー


私が子どもの頃(30年前)は、そもそもこんな「疾患」というか「概念」そのものの存在を親も先生も当然まったく知りませんでした。

子どものころから頻繁にいじめられ、母親代わりの祖母も先生も困っていたようです。父からは「気が弱くて言い返せないんだろう」と言われたことがあります。「たまには言い返したり殴り返してみろ」というのが父親の見解。周りに馴染めなかったり、自分の世界に没入しがちなところも「一人っ子だから」ぐらいに思われていたかもしれません。当然、「いじめられていること」は、自分でなんとかするのが当たり前の風潮でした。

いじめられる立場に一度小学生の早い段階でなってしまうと、中学生で立場を変えて人間関係をリカバリーするのは不可能に近いと感じます。小学校と中学校は同じ地域でお互いに知っている生徒が進級していくので、「自分を知っている生徒」が一定数いるからです。結局知っている人から、知らない人へだんだん自分の扱われ方というか、「いじめられる立場」が浸透していくのです。中学生のときに一度反抗期を迎えることで、みんながグレていきいじめは深刻になります。当時のいじめは本当に凄まじったです。先輩が鉄パイプで先生を本気で殴って警察に連行され、事件になって新聞に載るような状況でした。

中学生の私に友人はほぼおらず、家ではゲームと「自分が作った架空の国の歴史」を空想してノートにメモすることに熱中していました。ただ、どこか心のなかで「このままではだめだ」と思っていたのは確かです。「人間関係が変われば自分の性格も変えられるんじゃないか」みたいに思っていて、私自身、自分を変えるチャンスを待っていました。

中学3年で不登校


中学3年の時、いじめが激化し悪質になったのを機に体調を崩して不登校になりました。祖母は心配し、大きな病院も一緒に受診してくれましたが、受診したのは「神経科」。ドンピシャな診断なはずもなく、なんとなく「自律神経」の問題になっていました。体温が勝手に上がるので、「若年性高体温症」という、実在するかどうかわからない病名がつけられたのを今でも覚えています。祖母が繰り返し同じ病院へ連れていってくれましたが、結局「先生にさじを投げられた」と悔しそうに嘆きました。私も「何かおかしい」と気がついてはいて、漠然と「精神科ならわかってくれるかも…」と感じてはいましたが、これは親から嫌がられました。中学生で精神科へかかりたいと思う自分も変だと思われましたし、そもそも周りは精神科にかかっている人もいません。さらに精神科へ受診することを「恥」だと思う感覚も強かったので仕方ないかもしれません。小中学校を通して欠席が増えていったのに変わりはありませんでしたが、唯一作文で褒められたことが記憶に残っています。このことが、わたし自身が「書くこと」が得意と思うきっかけになり、人生で大きな決断をする要因になったと思っています。

高校受験の前、中学3年生の1学期の途中あたりからほぼ欠席ばかりでしたが、たまたま出席したある日の授業で、クラスの全員が「こっそり自分の内申点を教えてもらう」という時間が設けられたことがありました。そのとき担任からみんなの前で私は「お前なし」と言われたのを覚えています。今はもうそんなことはないかもしれませんが、当時は高校で浪人するケースがけっこうありました。半年くらい学校に行っていなかったので、「内申点が5割+受験の点数が5割」みたいな高校受験で、内申点が「なし」と言われては、どうあがいても受からない仕組みだったように思います。

高校浪人

大幅に志望校のランクを下げて受験しましたが不合格で結局浪人。ものすごく勉強して再度挑戦した翌年も志望校にまた不合格で、第二志望も滑り止めの私立もみな不合格でした。けっきょく普通科は全滅で、一浪したにも関わらず公立高校の二次募集というその年最後の受験にまで追い詰められてしまいます。父が「入れそうな高校」を真剣に一覧表とにらめっこして探していて、たまたま「定員割れの商業高校の情報処理科」という選択肢を見つけてくれたので、なんとか高校に進学できました。

「普通科」しか考えていなかった自分には盲点でしたが、そのときに通学できる距離の普通科の倍率は軒並み1倍以上でかなり人気でしたし、「落ちる人が多い」となったら自分もそこに入る確率は高い。そういう意味では、もうそこを受けて進学する以外、選択肢がないのは当時の自分にもわかりました。もし万が一、2年連続で高校に行けなかったら、本当にふつうの高校生とは違った道を歩んでいたかもしれないです。それこそまた浪人するか、あるいは全然勉強ができない子の受け皿だった「勉強免除」の自動車関係の訓練校に行くくらいしか今も思いつきません。定員割れでも一応試験はあったので、まだ「落ちる」恐怖はありました…。私は14歳というかなり早い年齢でそれこそいきあなり「脱落」したまま、人生を歩む可能性を想像していたのです。

やっとの思いで手に入れた高校生活でしたが、人間関係からみれば最悪でした。そもそも「作文や読書が得意で文系の勉強が好き」な自分と、「パソコンの仕組みを学びたい」生徒たちでは、意識も目的もまったく違います。話が噛み合うはずがありません。ガラっと人間関係が変わってまわりは知らない人ばかりという「チャンス」にも関わらず、高校デビューで完全に浮いた自分は、いくら勉強や部活をがんばっても孤立した状況は変わらず…。同級生が恋バナをしたり付き合ったり初体験の話をしているなか、ひとり「いい子のふりをしていた」だけだったかもしれません。実際、同級生のことをあまり詳しく覚えていません。生徒から距離を置かれている先生方くらいしか、話す相手がいなかったのです。「おまえは目上にすり寄るのがほんとに好きなんだな」という同級生の言葉を、なんともやりきれない気持ちでときどき思い返します。

ただ、思いがけず勉強面ではいいこともありました。なんとなく本好きなだけだった自分が「情報処理」や「プログラミングの仕組みの基礎」や、「タイピング能力」や「実務の資格」など普通科に進学していては絶対に縁のなかったスキルや知識や資格をたくさん習得できたのです。不器用でぐちゃぐちゃな字しか書けなかった自分は、そのころからパソコンに没頭して、「タイピングでしか文字を書かない」と勝手に決めてしまいました。家でシャーペンやボールペンを使うことをほぼ辞めて、買ってもらったワープロに切り替える決断をしたのも高校生の時です。今でこそ字が綺麗になってきて、直筆も苦手ではなくなってきましたが、今でもパソコンで文字を打つのは日課です。これを高校生のときに習慣化したことは「時代を先取りしていた」感も少しあります。

大学受験までの道のり

その商業高校は明治時代に尾崎行雄という有名な政治家が作った、100年以上もの歴史がある高校だったのですが、おそらく先生全員が「生徒が商学部や経済学部以外へ進学した」という前例を誰も知らないくらい、大学進学はほぼ100%「推薦」でした。試験はもちろん「学力」ではなく「面接や小論文」が常識です。数字上は半分くらいの生徒が大学へ進学するのですが、伝統校らしく推薦先には商業系に限りますが、「有名な大学」も多くあったので、「商学部・経済学部」か「商科大学」しか進学先がなくても、誰も不満はなかったのです。

一方で「一般入試」という学力試験を受けて大学に行く例もあることはありました。しかしこちらは当時あまりぱっとせず、偏差値もあまり高くない地元の経済系の大学くらいしか進学実績がありませんでした。当然、学力試験を伴う「一般入試」は、真面目に勉強していた生徒たちほど絶対に選ばない、怖いものだったのです。「普通科」と競ったら負けるのが当たり前という空気の中、私が「東京の私立へ行きたい」「地元は絶対に嫌だ」「しかも文学部」と、3年次に宣言したとき、先生も親も反対というより、最初は理解不能という感じでした。

それもそのはず、商業高校は「普通科」で習うはずの授業のうち、中学で「社会」に相当するはずの「日本史」や「地理」が大幅に「簡単なカリキュラム」になっているからです。(かろうじて「世界史」はあったように思いますが…)その分の授業をほとんど普通科にない「商業科目や情報処理の学習や実技」に割いていたので、入試科目のインプット量の差が「普通科」と比べたら全く違います。その分スキルが身について就職には有利というメリットこそありますが、なぜ普通科の生徒と一般入試で競うのか、理解できる先生はいなかったでしょう。

私も「受験する」と決めてから「どんなものか」と思って進学校の生徒が集う有名な予備校の夏期講習をお試しで3科目受けたことがあります。そのときにはじめて高校レベルの世界史を知りました。確かうちの高校でも世界史は習ったよなあ、と思っていたのですが、当時は本当に「次元が違う」くらい衝撃的でした。

目の前で展開される「違う世界の説明」…。あまりの情報量の差に「外国語」のように話を聞いていただけでした。唯一内容で覚えているのは講師が「トンキン湾事件」と言ったことだけです。その「トンキンワン」という響きが面白いなあという「感想」しか覚えていません。勉強を習いに行って、感想しか出てこなかったのは、自分にも初めての体験でした。

ただ、高校の先生方は国語と英語と選択科目の社会科の3つからなる、いわゆる平均的な私立の文系大学の学力試験を「厳しいな…」と感じながら、表立っては反対もしなかったように思います。

そこには、むやみに反対もできない事情があるのを先生方も理解していたからでしょう。

私は理数系や簿記などの数字を伴う勉強がおそろしいほどできず、中学の時のように不登校とまではいかずとも、高校も休みがちでした。「中学校の内申点のように、普段の成績や出席率をコツコツ積み上げていく推薦入試は逆に厳しい…」。というのは、進路指導の先生だけでなく、先生方の共通認識だったようです。「ちゃんと出席してくれれば…。当然西巻さんも大学へ推薦できるんだけど…」。と親には説明してくれていたようですが、実情はもっと酷いものでした。

国語や社会と同様「簡単なカリキュラム」になっているはずの数学でさえ、100点満点中6点とかいう記録的な赤点を連発していた私は、ひそかに担任の先生から「卒業が危うい」と伝えられていたくらいです。

中学の頃、あれだけ内申点に泣かされていた自分にとって、推薦入試で、しかも志望ではない商業系の大学へ行くことは完全に論外です。先生からみても、むしろ「ぶっつけ本番」で奇跡を起こしてくれたほうが進学実績もプラスになるし、「赤点連発、留年ぎりぎり」の出来の悪い生徒を見逃す口実にもなる…。

誰も何も言わないまま、先生方と私は、変なふうに「利害が一致した」のでしょう。

大学合格


大学入試の時、私はあまり意地になって勉強したわけではないのですが、それでも高校入試よりはるかに勝算を感じていました。過去の栄光ではあったのですが、中学の時に何回か受けた模試で、常に国語と社会は全体で一桁順位だったからです。

苦手な数学や(特に物理が絡む)理科に関しては、何人いるかわからない全体の高校生のなかで、かなり下位に位置しており、自分が何位なのか桁数すらわからないほどでした。ただ、得意科目と苦手科目の合計を足して5科目で計算すると、平均して真ん中より上の順位になるので、模試では成績が悪くなかったというだけです。「内申点5割」を足されてさらに「5科目必須」の高校受験と、今回の大学受験では能力を発揮できる可能性が全く違いました。実質、「5科目内申あり」で内申0点なので50%引き、さらに5科目試験のなかに苦手科目が必ず25%ほど入っているので、常に得意科目の能力から「75%引き」されながら戦うイメージです。どこぞのスーパーのバーゲンより割引きされています。得意科目のみで、さらに「一発勝負」で内申点もなしという前提なら、発揮できる力は確実に100%になります。現代文に関してはまったく勉強しなくても読書だけで大丈夫くらいな自身があったので、暗記科目の古典文法と漢文、そして英単語。あとは自力で復習して徐々にわかってきた世界史を勉強して行けば、あ、これは普通科出身の人が相手でもワンチャンあるな、と思っていたのです。

実際のところ、国語と英語の2科目だけで受験できる大学も同時に受けていたので、3科目受験した大学は実際に進学した成城大学と不合格の明治大学だけだったのですが、目論見は見事にハマりました。地方からの受験で普通科でもないため模試の情報すら入らず、東京の事情も全くわからないなかで「文学で実績があり、特色のある個性的な教育をしている大学」を自分の偏差値が不明なまま探すのは大変でしたが、結果は4つの大学を受けて、落ちたのは完全な記念受験だった父の母校、明治大学のみ。二松学舎大学と和光大学にも合格して4戦3勝。

結果、母校の「進学おめでとう」の欄に3つの大学名が並ぶ事になりました。「おめでとう」欄が掲げられた日、それを見た後輩たちがさすがに変にざわつきました。自信満々で後ろのほうで会話を聞いていたら、どうも「すごい」というより、「意味がわからない」という様子です。「どうして1人だけ3つも受かってるの」とか、「そもそもこの大学どこにあるの?」とか、「なんで1人だけ文学部なの?」とか…。「尊敬される」というより「なんか変なことをやらかした人に見られている」雰囲気を感じ、そそくさとその場を離れたのでした。

ただ実際に高校へ報告に行き、合格を伝えた瞬間、その場にいた英語の先生が「うおーーー。万歳!」と大声で喜んでくれました。それで先生方がみんな集まってきて、「ほんとすごい」とか「おめでとう」と言われたことは、人生ではじめてのことで本当にうれしかったです。ただ私は、なんとも落ち着かなかったのです。確かに「合格」はしました。しかし「卒業」できなければ進学はできません…。担任の先生がやってきたので、「先生、ぼく、そもそも卒業できたんですか?」と尋ね、「卒業…?」という若干の沈黙のあと、「できたよ!」と笑顔で返事されたことで、ようやく心から安心しました。

こうして私の義務教育と受験戦争は終わりました。子どものころから、あまりにも偏ったエピソードしかありません。中学卒業後は、そもそも「進学できたこと」自体でやっとな感じでしたし、受験に成功したイメージは今でもありません。テスト会場には常に「イチかバチか」みたいな、なにか鉄火場の緊張感とでもいうような雰囲気で答案を書いていました。後々の自分の人生を振り返ると、あの大学に合格して東京で暮らしたた5年ほどが、自分の人生で一番幸せな時間だったかもしれない…。と考えたりもしますが、とりあえずその時は「もう二度と数学や物理をやる必要がなくなって、本当によかった…」。という解放された感じでいっぱいだったのを覚えています。

ここからがほんとうの意味での現在につづく「困難」のはじまりでしたが、長いので「よかった大学生活」は全てカットします。ただ、大学に入って、専門的なことを学ぶようになってから、ようやく話が合う友だちができはじめました。それをきっかけに、いろいろな話す工夫のようなものを身に付けてゆき、だんだん話題も増え、全く初対面の人ともなんとなく会話がスムーズになっていきます。フラれましたが恋もしました。就職活動ははじめ東京にいたくて、あととにかく「書く仕事」を目指して、倍率が1,000倍もある出版社や新聞社を受けつづけたり、大学院へ進学するための情報を集めたりしていましたが、その矢先に父が急死。大学院や東京での就職を諦め、とにかく大学を卒業するために留年して1年じたばたしたあげく、とうとう最終的に祖母と一緒に暮らすために、地元での就職をなんとか決めました。そのとき私は働く目的を「苦手を直すこと」に決めました。「自分の苦手な話すスキルや、コミュニケーション能力を高める」のを目的として選んだのは「話す仕事」、「学習塾の先生」だったのです。

とりあえず学生だった15年ほどの体験のまとめとして、ここまでを「体験編①」としてまとめさせていただきます。②も途中ぐらいはできていますが、これから早く記事を完成できるか、遅くなるかは全然わかりません。他の課題も抱えていますし、今回みたいにしゃにむに突っ走ることがないようにしたいと思います。

本当に長々とお付き合いいただいて、ありがとうございました。

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