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『愛の美学』 Season3 エピソード 7  「愛の知力」(2917文字)

このシリーズでは、『性知学』という新たな学問領域を提唱している。フィロス』とは『ソフィアである、の示すところを、私たちが抱えるエロスの課題を通して、『愛』の本質を知ろうというこころみである。

「性知学」と「哲学」

先の標題に示した通り、このシリーズで提唱している『性知学』という新たな学問領域は、フィロス』とは『ソフィアであることを謳っている。

まさに、フィロス』と『ソフィア』で「哲学フィロソフィア ※1、英語で「哲学」フィロソフィーとは『知を愛する』ことである。

※1  世界大百科事典によれば、「哲学」という言葉は、明治初年の段階で西周にしあまねによって、英語の〈フィロソフィーphilosophy〉の訳語として作られたとされている。
〈フィロソフィー〉は、ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,「知恵ソフィア」sophia を「愛するフィレイン」 philein という意味。
そこで西周は,周濂渓れんけいの「士希賢(士は賢をこいねがう)」(「通書」志学)にならい、賢哲の明智を愛し希求するとの意で、はじめ「希哲学」(哲智すなわち明らかな智を希求する学)と訳し,のちに「哲学」と定めたといわれる。

つまるところ、『性知学』は哲学領域であり、『愛』も『美学』も『性知学』の一領域である。

しかし、どうも「哲学」というと、堅苦しくなってしまう。その元の意味は「知を愛する」こと、そして、「賢くなることを希求する」ことなのだから、向上心や知への飽くなき興味、関心、憧れがある限り、そこには既に「哲学」があるはずなのだ。

フィロス』と『ソフィアは、『愛の美学』の骨格であり、屋台骨である。とかく「愛」は感情的あるいは情動的エモーショナルに捉えられがちだが、それは「愛情」や「性愛」という感覚的、情緒的な面に影響を受けているからだろう。

それらの影響の発端は、西洋キリスト教からきていることは否めない。

以前、『愛の美学』 Season2 エピソード 2 「愛の領域」愛の源泉はいずこに、で「愛」と「知」のことについて触れた。

キリスト教が、愛の宗教としてイメージを確立し、布教のために選んだスローガンが「愛」だったのだ。

新約聖書「コリント書 第十三章 <至上の愛(Supremacy of Love)>」には次のようにある。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。しかし、その内、最も大いなるものは愛である。

コリント書 第十三章「至上の愛(Supremacy of Love)」

このフレーズは愛の賛歌として有名で、キリスト教を愛の宗教として印象付けた。しかし、実際のセンテンスは「ナグ・ハマディ文書」の中に収められた「フィリポによる福音書」に記されている。

ここに「愛」の真髄が記されていたのだが、パウロ派による意図的な削除により、「愛」の源泉ルーツが抜け落ちてしまった。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。しかし、その内、最も大いなるものは愛である。

だが、信仰と希望と愛より大いなるものは知識である。はむしろ知識の結果なのである。

このように、「ナグ・ハマディ文書」では、愛の説明が追加されていた。これは「失われた福音」にも記されているが、パウロ派グノーシス派 ※2対立関係にあったことも関連している。

※2 グノーシス主義とは、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけてっ地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。グノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、自己の本質と真のについての認識に到達することを求める思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。

イエスは「愛」とは、知識の結果だと唱えていた。パウロの目論みは、協会による民衆の先導であり、結局は民衆に賢さを望んでいなかったのだろう。

民衆を子羊のごとく先導するためには、賢くなってもらっては困るのである。グノーシス派との対立も、そういった意味ではうなずける。近代の信仰に、希望の源泉として智慧を欠いた抜け殻の「愛」が残存しているのはこの影響が大きい。

したがって、ここで本来の「愛」の視点を元に戻す必要があるのだ。

これが本来の「哲学」であり、そのものが「知」を「愛」する姿なのであろう。「愛」の視点を元に戻し、抜け殻の「愛」に生気をみなぎられせ、「快活な愛」を営めるよう「知恵」や「叡智」を「愛」に注ぎ込む必要があるのだ。

「愛」は「知識」の「結果」

さて、「愛」は「知識」の「結果」である、とはどういう意味なのだろうか。「知識」は蓄積される。豊富な知識は現代の「AI」に代表される「知」の巨人としてそこにコンピューターやITの技術が関連しているようにも思える。

そう捉えると、「愛」がとても機械的な冷たい印象となるのも事実だ。果たして、「愛」は「機械」や「コンピューター」で代用が可能なモノなのだろうか。

得てして産業革命以来、資本主義社会の現代の経済的発展の立役者は、コンピューターやインターネット、つまりIT技術の発展とともにあるとしてよいだろう。

これは翻訳にも目を通す必要があるが、「愛」を支えるのは単なる「知識」ではないはずだ。人間の「知」を測るには「IQ/知能」と、もう一つ、「知性」がある。

「知能」と「知性」は全く異なる。

イエスが唱えた「愛」を担う「知識」とは、一般に「知性」のことだろう。

これを「知能」と「知性」の位置マッピングで解説しよう。

単なる「知能」は下図のように、「知の面」を担う「能」を重点的に把握する力である。

一方「知性」は「感の面」の「性」の領域を担う。いわば、「愛」が「情動」や「感情」のおりとしての上澄みのように見えるのは、「感の面」の感覚的感性のせいなのだろう。

しかし、本来「知性」とは「知」と「性」の両方持っているということである。マッピングで言えば、「知の面」の「能」と「感の面」の「性」を共に持つということだ。

「性知学」のネーミングが同じ文字の羅列から成るのも、これが本来の「愛」を担う「フィールド」であるからだ。

更に完結に立体モデルを、「理の面」つまり「結果」が見えるアスペクトとして下図をご覧いただこう。

「性能」という言葉がある。これは単なる能力のように使われているが、基本的にはパフォーマンスを示している。様々な能力パフォーマンスがあるのだが、その中でも「知性」は「性」を重んじている。

この感情的な解釈やコミュニケーションの土台になっている「性」を抜きにして「愛」の「知識」を語ることはできない。

つまり、「知識」は単なる「知能」ではなく、「知性」を担うのだ、ということを再認識することが大切だろう。

イエスが唱えた言葉を現代的な解釈に変換するとしたら、「愛」は「知性」の結果、ともいえるかも知れない。

次回は、「愛」のパフォーマンス、「愛の体力」について解説することにしよう。

つづく







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