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Keep a distance from "民藝論"

東京国立近代美術館「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展が終了してから大分日が経ってしまいました。展示会に行く前後に書き散らかして放置していた文章を、少し推敲して公開します。(展示会へ行った直後の感想はこちら。)


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国立近代美術館での「民藝の100年」展に行く前に、20代の頃読んだ「工藝の道」を改めて読みました。

「工藝の道」を読み、民藝の100年展を見て、私、西川の個人的な結論めいたものを言うならば…【『民藝論』は「見立て側」の人達、プロデューサー、販売側の人達には使えるかも、しかし物を「作る側」の人間にとっては手枷、足枷でもある】ということです。作り手は「民藝的思想」からは適宜距離を置いた方が幸せだなと。


だってさー柳せんせーご本人はめっちゃ自意識自我ゆんゆんじゃんかああああ!!!と、文章からも民藝の100年展を見ても確信してしまったのですもん。まあ、柳氏からは「君の作るものは民藝ではない」と最初から私は門前払いではありましょうが。


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圧倒的才能の「天才」の手による聳え立つ輝かしい美ではなく、名もなき民の手による生活の中にある美、それこそが理にかなった理想の調和の美、「民藝」であるという柳氏。氏は自分の属する自己顕示が前面に出たスノッブな知識人の美術や個人工芸作家の世界よりも、日本や朝鮮、沖縄などの名もなき民衆の作り出す物の世界に救いの道を見出し、自分も「そっち側」の人間なんだと思いたかったのだろうと思う。

大正から昭和初期、1900年代前半に「作る当事者ではない知識人」が、特権階級の美術ではなく、市井の無名の人々がその土地の風土に根ざし、自らの身体を使い作り出した生活の道具に美、価値を見出し、日本に【民藝】という新たな価値を発見し提唱したこと。その革命的な功績は疑うべくもありません。柳氏のコレクションがあるからこそ、現在の私たちが、当時既に失われつつあった各地の良質な手工芸品を今見ることが出来る。これは本当に、素直に、ありがたい!と思います。


がしかし。


まず、一般人の作り手側から言わせてもらいたい。「うちら大衆一人一人にも我欲はあるし、手工芸的反復作業だって誰にでも出来る開かれた世界って訳でもないんスよ、先生!」


明治以来、西洋的価値観、思想、技術…哲学、美術、宗教、経済、工業…を死に物狂いで学び取り入れ、劣等感と共に精神分裂的にならざるを得なかった一部の日本のエリート、文化人にとって ーー夏目漱石先生がその代表でしょうかーー 学もなく名もなく虐げられし庶民達が日常の糧として作り使ってきた物の中に美、仏性、真理を見い出した(と信じられた)ことは大きな救いであったのだろうとは想像します。社会主義思想、ヨーロッパ神秘主義、ウィリアムブレイク、キリスト教、アーツアンドクラフト、浄土真宗…様々の影響がないまぜになった美と正義についての熱い文章は読んでいてだんだん気恥ずかしくなってしまった私です。


素材と向き合う制作現場では、観察し、思い込みを排し「我を張ることなく作る」という姿勢はとても大切だと思います。素材を自分が扱っているのではなく、素材に自分が奉仕しているような感覚。


が、しかし。


「完全な無我」「無作為」でなければ「正しく美しい工藝は作れない」となるとそれはまた別問題です。「我を張りすぎないこと」と「無作為」「無私」との間にはめちゃくちゃ次元の差、断絶がある。「我を張らない」は「我の存在は認めるがその運用には気をつけましょう」ということ。「無作為」「無私」は「我」の存在そのものが「無」ということ。全然ちゃいますんですよ!!!

くどいようですが、いつの時代も、名もなき大衆にも心が、そうそう簡単には消せない自我があります…程度の差はあっても。強く自己主張をしない=自我がない、ではありませんからね!

マシーンの如く数をこなしてその中にたまーに【無我の境地の真の美が宿るものが出現!!しかも作者の名はないのだ!】って目利きの方が仰られ、それだけお買い上げいただく、と。(柳宗悦氏の息子さんである柳宗理氏が、手仕事ではなく工業デザイナーの方向に行かれたのも理解出来る気がします)。この論理でいくと、沢山の労働の中で「たまたま無我の境地で作れちゃった美」を、それを作った作り手自身は「はい、これがそうやって出来たものでーす!!」と判断して提示することが出来ないんですよ。何故なら「自分という主体が大衆にないからこその美」ですから。目利きの方に見つけてもらってお墨付きをもらわねば価値が生まれない。え〜そんなん、うっかり搾取される一方じゃ〜あ〜りませんかっっ!!


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まず「作る意思」「作為」のエネルギーがどこかに働かなければ物は作れない。「いかなる立場にも立たない」のは「悟った人」のみ。自我を持たない、仏教でいうところの阿羅漢が、果たして物を作って売る、という行為をするのでしょうか…???


無知な大衆の中にこそ無我のユートピアが発現するという他力的思想。大正、昭和の初期、大量生産消費社会は益々加速し、地方から都市に多くの人が流れ、醜悪な商品が溢れる。貧しい農村では婦女子が売られ米騒動、そんな市井の人々を掬い上げたい、民の中にこそ救いがあるという思想を掲げたことは知識人の良心、善意の表れなのかもしれません…同情心からではないと柳氏は書いておられますが(私はこの書において名もなき大衆への味方として立った。それはただ虐げられた者への同情においてではない。もっと強く凡庸を余儀なくされる大衆の運命に、積極的意義を肯定しようとするのである 『工藝への道』序文)。が、しかし一方でそれは「無私たる大衆である作り手」という実際には存在しないファンタジーを勝手に一般人が背負わされることでもあります。高らかに咏い上げるような先生の熱い文章を読みながらだんだん気が重くなってまいりましたのです、ワタクシ。


人間社会では【適度に「我」を主張しなければ生きられない】。そこを作り手は忘れてはいかんと思います。作り手のみなさん!見立て側・販売側に民藝の「無我」「奉仕」の理論で利用されていませんか?ぶっちゃけていえば、あなたの品を扱うお店…ちゃんと適当な頻度で、適切な納期で、適正な価格で「買い取って」適正な期日に「支払って」くれますか?


物を作りそれを販売して生計を立てることと、「無我」「奉仕」の精神は、いつの時代であっても「人間社会」、とくに商社会においては残念ながら成立しない。運が悪ければ搾取されるだけ。「制作現場」と「ビジネスの現場」での心の持ちようを分けて考えないと作る側の人間は大変に危険だと思います。


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柳先生は初期の茶人にシンパシーを感じていたようです。高麗茶碗のような朝鮮の雑器に侘び寂びの美と価値を見出した天才に。

初期の茶人の見立ての世界は戦国の武家社会の血生臭い我の張り合い、命をかけた真剣勝負の中にあったはず。侘び寂びの背後には、俺の見立てはどうだ!という強烈な自我と自我の真剣勝負から発する審美眼があったのではないでしょうか。それは「どこにも属すことのない」直感ではない。

私は「どこにも属することがない」状態は肉体のある人間である限り不可能だと思いますし、柳氏の文章からもコレクションからも、やっぱり彼の強烈な自我を感じない訳にはいきません。見立て側の彼は無名ではなく、民藝館にあるものはまごう事なき堂々たる「柳宗悦」コレクションです。この自我の発露は「見立て側」には使えます。あら〜狡いわよね〜上手いわよね〜と無我という美しい物語を背負わされる作り手側としてはつい思ってしまいます…たとえそれが善意が出発点であったとしても。

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作り手側は無我の名前なき大衆。一方で見立て側には「どこにも属すことのない直感」でものを見ることが出来る人、つまり稀有な「天才」という「個人」が必要になってしまうという皮肉。柳先生は目利きへ至る具体的な方策を残しているのかといえば、見る数をこなすことと最終的には直感、のようです。つまりそれは「民藝の美」を認定できる神は柳先生その人ただ一人である、ということに行きついてしまいます。結局、どこかに「天才」「家元」が必要…人間社会の宿命かもしれません。


突出した天才たちの数々の冒険の結果の集積の上に私たち人類は生きています。量子力学の天才達のお陰で私たちはスマホを使える。その前には相対性理論があり、その前にはニュートン力学がある(とか書いてますが、間違ってたら誰かご指摘を!笑)。太古の昔からその時代時代の天才達が限界をブレークスルーし、それが社会に還元され、良きにつけ悪きにつけ今の世界がある。


しかし、現代の「民藝」「工藝」の世界では、作り手も使う側も、柳という「見立ての天才」の作った檻、枷に閉じ込められっぱなしで止まってしまっているのではないでしょうか?「作為なき」「直感」「無我」という檻の中に。そして、その檻に気づいても、それは見なかったことにしてしまいたくなる...真面目な人ほど自らその檻を壊す勇気を持ちづらい構造があります。自分は自己主張したいだけなのか?単なる出たがりのエゴイストなのか?そんな自分に物を作る資格はあるのか?物の審美を判断する資格があるのか?云々。

一方、そんな悩みとは無縁の「エゴ」と「楽しみ」を持つ人はどんどん世界を広げてアップデートしていくわけです(エゴの張り合い、オレはオレは私は私は、の世界もまたウンザリでもありますが、話が拡散するのでそこには今回は踏み込みません)。

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夏目漱石の「門」の主人公は禅寺に座ってはみたものの、求めながらも自分はそこで救われる人間ではないと自覚する(彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦すくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。)。私はその救いのない世界、絶望、孤独の世界の人をより信頼できると感じます…特に「高等遊民」「文化人」というべき立場の人であるならば。一方で「絶対的な真」や「正しい美」「ユートピア」を声高に唱える人達には疑いを持ってしまいます…それが「文化人」であるならば特に。「無我」という境地への憧れは私にもありますが(ホンマかいな?笑)、そんなに簡単に救われてたまるかよ、とも思う人間です。


カッコつけていえば、荒涼たる救いのないこの世界で、いかに日々我を張り過ぎず、おおらかに淡々と悦びを感じながら誰かに喜んでもらえるものを作り、糧を得て生きていくか。その試行錯誤が、特別な才能などない一般人である自分にとっての道ではないか、と。柳宗悦という天才の「コレクションそのもの」からは多くを学びつつも、彼の考えたユートピア的仮想現実「民藝」の世界からは距離を置いて。




















(「芭蕉布物語」の呪縛から芭蕉布が解き放たれる日が来ますように…)


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