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だから地球はまわる


ふだん、わたしは滅多にコンビニに行かないのだが、ある朝、散歩をした帰りに、なんとなく寄ってみようかなと思いお店へ入った。

店内をざっと見た後、別に欲しいものないなぁと思ったところに、あるスイーツが目に入ってきて、それが八天堂のクリームパンだった。

懐かしい。

昔、娘が入院していたときに、通っていた病院の途中にある駅構内でよく買っていたなぁ。

久々に食べてみようかなと思って買って帰って、少し冷蔵庫に冷やしてから食べることにした。

袋を開けて、ひんやりしたパン生地を掴み、取り出そうとした瞬間、わたしの目はあるものを捉えた。


あ、髪の毛が入ってる…!


それから、どのくらいの瞬間、黙っていたかはわからないが、わたしは、わたしの身体の反応に耳すませていたのだと思う。

最初に出てきた感覚が “ちゃんと人が作ってくれてるんだ”という、エネルギーとしての実感だった。

そして、その後このクリームパンをどうするか、という思考が動き始めるのを感じて、わたしはわたしの選択ひとつで、どんな方向へも舵を切れることを理解した上で、そのクリームパンを食べることにした。

うん、なんの問題もない。

普通に美味しく食べることが出来た。


以前のわたしなら、きっと嫌な気分になっていただろう。

そして、そのままコンビニへ行って、新しいものと交換してもらっただろう。

じゃあ今回、何でそれをやらなかったのかと聞かれたら、それもよくわからない。

でも、わたしの中には、人が作ってくれているというエネルギーが真っ先に入ってきて、そこに対するありがたさみたいなものが溢れてきたものだから、あーだこーだ現実的な対処に動くことに、あまり心地よさを見出せなかったのかなと思う。


話は変わるが、昨年の秋頃、新しい歯医者に通い始めた。

その時に口内の細菌チェックをして見せてもらったのだけど、目に見えなくても、生命の営みを支える菌が相当な数いるという事実を目の当たりにした。

正直、その時は結構衝撃で、蠢く細菌たちの映像が気持ち悪くて仕方なかったのだが、それと同時に目に見える部分に振り回されることが、なんと間抜けなことなんだろう、と思わずにはいられなかった。

気持ち悪いって失礼な話だよね。
この生命を支えてもらっているのに。

髪の毛のことだって同じで、目に見えないものの方が圧倒的に多いんだから、そんな一部に振り回されて、気分の悪さを選んでしまうことの方が、エネルギー的な消耗が激しい。

もちろん交換してもらって、よりいい気分になれるならそれもいいと思うけど、わたしはそこにあまり差を感じなかったから、今回の件では、差し出されたものをそのまま受け取ることにした。

ま、でもなかなかないよね。
髪の毛が入ってることなんて。

わたしの夫は美容室を経営しているのだけど、昔から掃除はわたしの担当で、かなり念入りにやってきた過去がある。

美容室だからこそ、髪の毛一本も残さない気持ちで、いつも掃除をしていたのだ。
 

家でも、髪の毛やゴミを見つけるとつい拾ってしまう。

夫や娘はその辺にゴミをぽいぽいするし、散らかっていてもあまり気にならないみたいで、結局気になるわたしが片付ける。

今は自分だけの寝室があるから、聖域を守れて相当穏やかに過ごせているけど、目に見える部分が整っていないと自分までごちゃごちゃしてくるから、自分の心地よさのために、守るべきところは守るというのは大切なことだと思う。

ただ、それを人に要求し始めるといろいろ歪みが出てくるので、結局はバランスなのだ。

すべてはバランスで成り立っているこの世界、綺麗好きがいきすぎれば、そうでないものが目の前に現れるようになっているから、その辺の気付きのために、あらゆる現象は起きている。

どっちでもいい、なんでもいい、人それぞれ、あとは好みの問題というところに落ち着くまで、手放した方がよさそうなものは、結構いろいろあるということだ。


ちなみに余談だが、先日B’zのLIVEのSS席のチケットが当たった。

これまでは、SS席が当たればうれしいけど、確率的に可能性は少ないから、LIVEに行けるならS席でもなんでもいいと思って応募していた。

そして、S席が当たっていた。

でも今回は、なぜかSS席で観れないなら行けなくていい、と思って応募したら、SS席が当たった。

無意識でSS席が当たるのをわかっていたから、そのように応募したのか、それとも、応募した時の意識がそのまま現実に反映されたのか、その辺りはメビウスの輪のように流れているのでわからないのだが、なんの疑いも持たない腑に落ちた感覚や迷いのない意識が、もうすでに答えなのだなぁとは感じている。

結果ではなく、応募する瞬間の意識が、もうすでに答えそのものだということだ。


最近は、夢見がちの妄想のようなシンクロの数々が訪れて、そんなアホなって思ってしまいそうになったり、そもそもシンクロと思っていることさえ思考の産物なのではないか…と疑ってしまうこともあるけど、いつか届くかもしれないプレゼントとして、軽い気持ちで楽しみにしている。


結果はもう決まっている。ただどうなるかわからない今のこの空白とも言える期間そのものが楽しい。それがすべてだ。

あと、先日藤井風くんのLIVEに行ったのだが、グッズを買った後、開演まであまりに時間があり過ぎてどうしようかと思った。

その時、1時間ちょっとかけて、一旦家に帰る、という選択肢が頭に浮かんだ。その瞬間、ありえないほどワクワクした。

わたしにとって、それがその時の最高の選択肢だったのだ。

ただ家に帰ることにこんなにもワクワク出来る自分は、なんてしあわせなんだろうと思った。
そして安心して過ごせる家があることや家族への感謝が、自然と湧いてきたのだった。

家に着いたら、同じタイミングで娘と夫が帰ってきて、家族3人が揃ったのには笑った。繋がり過ぎでしょ(笑)

人生の中で重要なことって、実はそんなに多くないんだなってことを、つくづく感じさせられた出来事だった。

わたしの心地よさは、今この瞬間の選択でいかようにも生み出せる。


そして、何を選んでも、何を思っても、それがわたしだけの大切な答えなんだと、抱きしめてあげられることが、何よりうれしい。




勇気を出して、自分を生きる。

欲しいと思うものに素直に手を伸ばす。

嫌なものは嫌だと言う。

そうやって、子どものような素直さで喜怒哀楽を歌えば、それらは流れて消えてゆく。


わたしはそのことを、Mrs.GREE APPLEの歌で深く実感したから、今とっても素直になれてきている気がしている。綺麗事じゃなくて、自分はこうなんだって歌うリアルな彼の歌声は、後ろ向きなエゴかもしれないけど、エゴを認めるところがスタートなんだよって教えてくれている気がする。

それに、この世に生きている限り、エゴじゃないものなんて存在しない。Twitterで流れてきたそんな言葉がわたしを楽にしてくれた。

要するに、なんでも、どう在っても、いいってことだ。

何も目指す必要がなくなると、人生は一気に自由度を増す。


溢れてくるものに素直に

わたしはわたしのまま。

あなたはあなたのまま。

ただ、そうである。

だから地球はまわる。


そんな奇跡の連鎖が見え始めるとき、

目の前には、静かで平和な世界が広がっている。



初めて彼らの曲【ダンスホール】を聴いた時、Jackson5を初めて聴いた時のような衝撃を感じた。

この【They are】は、繊細な感覚から生まれた等身大の言葉と、美しいメロディーに触れられる。よどみが浄化されていくようだった。そして、ミセスの楽曲を聴けば聴くほど、何を表現してもいいんだと、深いところにある自分とどんどん繋がるような感覚になれた。



風くんのLIVEは、終始穏やかな楽園のようで、身体いっぱいのしあわせを感じた。仙骨から温かいものが込み上げてくるような、言葉にならない愛しさに包まれた時空間だった。


それぞれがそれぞれに大切にしたい物語があって、表現をしている。

そこに正しいも間違いもない。

みんな温かくて、みんな素敵なのだ。




大阪城公園
夜の大阪城
観覧車と満月



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