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「傍観者効果を打ち破れ!」 臨床心理士への随録 心理学

すっと動きがとれる人間でありたい。どうでもいいけど昔、腰が軽いと言うべきところを、尻が軽いと言ってしまい、恥ずかしい思いをしたな。

困っている仲間がいたら手を差し伸べるのが普通だろうが、できない場合がある。誰もしない事を真っ先にやるのは怖い。失敗不安だったり周囲の目が気になったり。でも、先日のあの場面では、やらない方が不自然だった。やらない理由を想像する前に足を動かしてしまえば、傍観者効果は防げるのだ。

傍観者効果とは、他者が緊急事態にある状況で、周囲に自分以外の第三者がいる場合は、単独で目撃した場合よりも、援助行動の生起が抑制される現象のことである。予備校で初めてこの理論を知った時、なるほどなと思った。終電間際の駅のホームでウエーとやっている人を見かけても声をかけないのはこのためだ。

以下、河合塾KALSテキストからの抜粋と一部考察である。

傍観者効果とは

傍観者効果に関する研究は、1960年代にニューヨークで発生した殺人事件を契機に促進した。その事件は被害者の名前から「キティ・ジェノバース事件」と呼ばれる。事件の概要は以下の通りである。

1964年、ニューヨークの住宅街の道路の真ん中で、20代の女性キティ・ジェノバースが刺殺された。被害者キティは最初の襲撃で傷を負って悲鳴をあげた。その悲鳴を聞いて犯人は一旦逃走するものの、介入者がいないために舞い戻り、また襲いかかった。悲鳴・逃走・再襲撃を繰り返し、最初の襲撃から30分後、ついにキティは殺害されてしまった。現場の道路の両側には高層アパートメントが立ち並んでおり、事件の最中、安全なアパートメントの中から襲撃の様子を見たり、キティの悲鳴を聞いた者は少なくとも38人にのぼる。しかし、彼女を助けに出ていった者はおらず、警察に通報したものすらいなかった。この事件の報道では「都会の死角」「冷えた人間関係」などの社会学的側面に目が向けられ、目撃しながら援助行動を行わなかった住民たちは報道後、激しくバッシングされた。

しかし、この状況における「場の力」に目を向けたダーリー&ラタネによって、傍観者効果を生み出す3つの要因が明らかにされ、状況によっては誰もが傍観者になってしまい、援助行動をとらない(とれない)可能性が示されたのである。

1.多元的無知

自分以外の目撃者が行動を起こさない様子を見ることにより、「援助するほどのことは起こっていないのだろう」という推論が働き、援助の必要性を過小評価し、自分も援助行動を起こさない。そのようにして援助行動を起こさないでいると、自分以外の目撃者も同じように考えるため、援助の必要性を過小評価し、援助行動を起こさない。後から来た人も、援助していない人々を見て、援助の必要性を過小評価し…と、これが延々と連鎖する。

キティ殺害の事件では、アパートメントの住人たちはもしかしたら、他の住人が介助しない様子をみて、映画の撮影とか知人同士がふざけ合っているだけだと、勝手に自己認知したのかもしれない。

2.評価懸念

他者の"自分を評価する目"を気にし、援助の失敗や恥を怖れる感情が働く。うまく援助できなかったら恥ずかしい、援助を申し出たのに断られたりしたら恥ずかしい、誰も援助していない場面でひとりだけ援助するのは格好をつけているようで恥ずかしい、など。

喝采と嘲笑は表裏で、こころへの侵襲強度はリスクのほうが強い。やるべきだけどやって笑われたり非難されたり拒否されるよりは、見て見ぬ振りをして事なかれ主義でいたほうがマシ、という計算ができあがる。

3.責任の分散

他の人も同じ様子を見ているため、その中で「自分が援助をすべき」という責任感を感じにくく、援助しなかったとしても叱責される可能性を感じられないため、援助が疎かになる。

大勢で行う会議などでもよく起こる現象。誰かがやるだろうというやつ。

以上3つの要因により、他者が近くにいる状況では(たとえその他者が知らない人であっても)援助行動の必要性を感じにくくなり、必要性を感じたとしても、実際の行動は起こしにくいのである。

「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん。」という、岡本太郎の言葉を思い出した。私は、すっと動きがとれる人間でありたい。