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釜ヶ崎芸術大学 10年。

上田假奈代

10年。

水はあまねく下の方へ、流れる。
もっとも、低いところへ。
なにかが堰き止めたとしても、ゆっくりといつのまにか、下へ。
汗やなみだ、痰、つば、小便も、雨や結露、雪。
埃や枯葉、ことばも、いっしょに流れていった。
釜ヶ崎芸術大学は、水のように流れていった。10年。


釜ヶ崎芸術大学2022前期 パンフレット表

はじまりは、釜ヶ崎で教わった

大阪市西成区通称釜ヶ崎、動物園前商店街にココルームが拠点を移したのは2008年1月。喫茶店のふりをしているココルームに元日雇い労働者の地域住人・おじさんたちが通ってくれるようになった。
Aさんは毎日何度もやってきて見ず知らずの人の腕をつねる。「出入り禁止にして」というスタッフの声にわたしは答えずのらりくらり。トラブルのたびにAさんと店の外に出た。是々非々をこころがけてつきあった。ワークショップに誘っても参加しないAさんが、一年半あまりたった頃、手紙を書く会に誘うとうなづき、ペンをとった。すぐに手が止まり、字の書き方を尋ねてきた。私は彼に字を教えながら、彼が字が書けないと想像したことは一度もなかったことに気づいた。ワークショップに参加しなかったのも当然だ。彼は毎日来ては、私たちのやりとりを見ていたのだろう。もし笑ったりバカにする人がいたとしても、ここでは誰かがそれをたしなめると信じてくれたのだろう。
「生きることは表現だ」と掲げてきた。けれど、表現するその前に「一人ひとりの存在が大切にされ、信じて、表現できる場をつくる」ことのほうがもっと大切だと、釜ヶ崎で教わった。(その後もAさんとは何度も喧嘩するので、特段「いい話」でもない。)釜ヶ崎芸術大学の萌芽がみえてくる。

カメラを向けると叩いていたけれど、やがてピースサインをしてくれるように

釜ヶ崎と学びあい

ココルームの向かいに「カマン!メディアセンター」を開設したのが2009年。企画当初は「釜ヶ崎メディアセンター」の予定だった。オープン2週間ほど前に、商店街からここに「釜ヶ崎」の看板があがることは気持ちとして受け入れがたい、という申し入れがあった。「釜ヶ崎」というスティグマに対し、地域のなかの分断もつないでゆきたいと思い、「カマン!」と名づけさまざまな企画を行った。月一回半年ほど試みた「釜ヶ崎大学」は研究者や院生、おじさんたちが車座で話をしたり聞いたりする。刺激的な学びあいの場が立ち上がった。
2010年に入り、商店街の音が変わる。威勢のよかった足音、声が、ゆっくりの音に変わってゆく。高齢化だ。商店街からほんの少し離れているおじさんたちの住まいの方で場を開けないだろうか。その思いが通じたのか、2011年、あいりんセンターそばの市営住宅の空きスペースを活用した月一回9ヶ月の講座を三徳寮が共催してくれた。「まちでつながる」と冠したチラシをカマン!のバザーで受け取ったおじさんが全回参加した。ちょうど断酒を始めたばかりで、なんと9ヶ月断酒。そして、坂下さんは言った。「酒はクスリ(抗酒剤)でやめるんやない。人生の楽しみでやめるんや!」さらに、「来月、生きとるか死んどるかわからんのや」。
それを聞いた当時の若いスタッフが生活のリズムになるように講座を組み、おじさんたちに馴染みのあるあちこちを会場に「釜ヶ崎芸術大学」という名前でやってみたいと言う。
カマン!メディアセンター開設から3年が経過し、この辺りを「新今宮」として盛り上げたいインバウンドを意識した流れがあった。地名は政治だ。政策によって作られ忌避される街・釜ヶ崎で、どっこい生きてる人々がいる。その営みに学ぶ大学をつくりたい。芸術を「生きる技術」とするならば、この街は芸術大学だ。「学びあいたい人がいれば、そこが大学」なのだから。

動物園前一番街に2008年ココルーム、2009年 カマン!メディアセンターを開設

釜芸の参加者は誰か

2012年、4ヶ月間の釜ヶ崎芸術大学が開講する。地域との関係が築かれ、炊き出しの場所、施設の談話室などを提供してもらえた。開講はおじさんたちに合わせると平日のお昼2時~4時に決まった。始まると、参加者は釜ヶ崎のおじさんたちだけだった。なかに会話の難しい人がいた。ある時通う理由を尋ねたら、「コミュニケーション、勉強にきたんや」。
この街には「不関与規範」と呼ばれるマナーがある。お互いの過去を詮索しない。名前やどこに住んでいるかを尋ねない。気が変われば、日払いドヤを移る。けれど、日雇い生活でなくなり生活保護を受給すると、そう簡単には引っ越せない。歳を重ね、身体は思うように動かせなくなる。「不関与」から少しづつ変わり始める。釜芸に通うようになり、顔見知りができる。しばらく顔を見かけなくなると、「クラスメートやからな、ちょっと部屋みてくるわ」とドヤへ出かけていく姿は驚きだった。
「ヨコハマトリエンナーレ2014」では、釜ヶ崎から50人ほどで横浜美術館に出かけた。横浜の新聞社の取材を受けた。翌朝の記事では釜芸は釜ヶ崎のホームレスのための大学、と書かれてあった。取材時には釜ヶ崎の生活保護のおじさんが大半でいろんな人たちが参加していると話したが、おそらくデスクが書き直したのだろう。それを読んだスタッフから、「釜芸の参加は誰でもなのに」と声があがった。
果たして、釜芸の参加者は誰なのか。学びあいたい人なら誰でも、掲げているが、当時も今ももっとも参加しにくいのはホームレスの方だと思う。野宿生活はアルミ缶集めなどで忙しい。それでも、来てくれたらうれしい。だから、ホームレスの大学と表されてしまったことを、むしろそうありたいと胸をはりたい、と思っている。

釜ヶ崎の三角公園の夏まつり。ココルームの書のブースで「人生一度」と書くおじさん

ココルームと釜芸の関係

ココルームは、喫茶店のふりをして、ほぼ365日開いている。朝10時〜夜8時、時には10時まで営業する。ふりなので、本当に喫茶店と思って入ってくる人もいれば、顔を見せに来る人、おしゃべりに立ち寄る人、からみに来る人、相談や困りごとを話しに来る人もいる。警察沙汰、差別発言、もやもやもあれば、奇跡のようなおもしろいことも起こる。人生劇場。その場に立ち会う時は、ずっとゆるやかなワークショップを進行しているような気がしている。
釜芸はココルームという場があるから、成立する。
地域に開かれたココルームという場があり、そこで働くスタッフや関係者が地域になじんでいき、そのうえで、釜芸では時間と空間が仕切られ、凝縮して何かが立ち上がる。人々の、これまで表されなかった何かが表される。おもしろいところが。すると、関係も変化してゆく。ココルームの日常が更新されてゆく。
あるおじさんは、ココルームに時折やってきては言いたいことを鉄砲のように語り、去ってゆく。いくら釜芸に誘っても参加はしない。一年経っても誘いつづけると、「わかった。おもろなかったら、自殺するからな」と言う。「どうぞ」。
その2年後、彼は誰よりも釜芸に通う人になり、荷物運びなどを率先して手伝うようになる。彼は他人の話を聞くことが苦手だった。詩の講座では「こころのたねとして」という二人一組でお互いに取材をしあって詩をつくる。彼は相手の人になかなか質問ができずにその人の属性や見た目で詩をつくってしまう。とくに注意することもなく、さらに一年ほどたった頃、彼が相手に質問をし、さらに他の参加者に「こたね」の説明をしていた。

玄関先はバザー。地域のおじさんたちや旅人が気軽の買い物をしてくれる

変わりながらつづく釜芸

「ヨコハマトリエンナーレ2014」に呼ばれ、アート界からの風向きが変わったように感じている。以降、だいたい毎年展覧会のお誘いをいただく。
そんな場には釜ヶ崎のおじさんたちと出かけて行きたいが、釜ヶ崎の男性の寿命は日本一短い。ただでさえ酷使してきた身体は早々に介護が必要になり、入院、死亡へとつづく。釜芸一期生のおじさんたちは天国に卒業し、釜のおじさんの参加はどんどん減っていく。
新しく釜ヶ崎の人たちに参加してもらえたらよいのだが、デイサービスの充実もあれば、カラオケスナックの急増、メディアで見聞きする釜芸のイメージからの敬遠もあるのだろう、釜のおじさんたちの参加は少なくなっていく。となれば、参加者が限りなく0に近づくはずなのだが、地域外からの参加が増えていく。すこし離れた地域で生活保護や年金を受給している方、遠くからやってきて一度だけという方も多い。
さらに、年間100講座近くある釜芸の運営をひとりで担うのは限界があり、そのことを釜芸の教授会で話したときに、サポートチーム「釜ヶ崎芸術大学アートマネジメントプロフェッショナル」略して「かまぷ〜」が生まれた。
参加者が減らない、サポートチームがいるというのは、本当にありがたいことで、つづける理由になるのだけど、もうひとつ、理由がある。

ヨコハマトリエンナーレ2014 釜ヶ崎芸術大学の展示風景 写真;田中雄一郎

釜ヶ崎を生きる記憶と記録

街は変わる。
水が下へ下へと流れるように、
同じ水ではないように。
ドヤがリニューアルされて綺麗なホテルや民泊になり、新築のホテルも建設される。インバウンドの頃には地価が数倍上がったと聞く。コロナの今でさえ高止まりのまま。万博を控えた大阪、この街への期待値があるようだ。一部のユーチューバーたちはこの街を刺激的な動画におさめる。釜ヶ崎への偏見はそのままに、何かが上書きされているような気がする。
道をつくり、建物をつくってきた、無名の人生を生きた人たちが何万人と暮らしてきた。流れ着いて生きてきた。そう簡単に上書きされたくない。
でも、どうやって。
であうこと。
あらわしあうことによって、であいがくっきりする。
2019年、ココルームの庭に井戸を掘ったのも、であうため。土木の仕事をしてきたおじさんたちが先生だ。のべ700人が彼らの経験と技術と知恵に学んだ。

釜芸、井戸を掘る2019  制作期間:4月〜10月 参加:のべ700人 

どこへゆくのか。

釜芸は「であいと表現の場」とするのは、そこに立ちあう人にかかっている。
それくらい自由で、のびのびと責任を果たす場だ。
2022年4月、「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」は施設名を「ゲストハウスとカフェと庭 釜ヶ崎芸術大学」に変える。
コロナ下で、ココルームで2年余りオン/オフのハイブリッドで開催してきたことも理由だが、この場の意志をもっと表そうと考えた。
ここが学びあいの場。

釜芸は、どこへゆくのか。
もっと下へ、下へ。死者たちとともに、しみこんでゆく。
野垂れ死にの向こうに。

大阪関西国際芸術祭2022-2023 展示風景 in船場エクセルビル

現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています