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黄昏のアポカリプス Vol.5 あきら、フランスへ行く

小説『黄昏のアポカリプス』というものを書いております。
ご興味ありましたら、ぜひ。


あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapiter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている

本編 Vol.5 あきら、フランスへ行く

 帰宅すると、両親が居間にいた。窓は分厚いカーテンで遮られ、室内は翳っていた。澱んだ空気が藻のように部屋中の壁にへばりついていた。時刻は午後四時だった。いつもならこの時間には父親は事務所で働いており、母親は夕食の準備を始めるころだった。ところが今、両親は揃ってソファに座っている。まっすぐに前を向き、無表情にしんと固まって。彼らはまるで時間のない空間にいる亡霊のように見えた。

「どうしたの?」とあきらは尋ねた。

両親はあいかわらずそのままの姿勢でそこに座っていた。声が聞こえなかったのかもしれない。両親が生きたまま化石になってしまったのではないかと思い、あきらは彼らの目の前で手をひらひらと振って見せた。父親がようやく顔を上げた。



「あきら、ちょっと話したいことがあるんだ」
正人は乾いた声で言い、少年をパソコンの前に連れていった。画面にはどこかの地図らしきものが映し出されており、ありとあらゆる場所が点滅する赤い光で埋め尽くされていた。光はまるで海のように、うねりながら強くなったり弱くなったりしていた。
「これがなんだかわかるか?」父親は息子に尋ねた。
あきらは首を振った。
「東京都の全域図だ。そしてこの赤い点はバグった被害者の数。見ての通り、ほとんどやられてる」
正人は言った。それから彼は画面に触れ、日本全域の地図に切り替えた。そこにもやはり、小さな赤いダニのような点がびっしりと蔓延はびこっていた。

「もちろん、都心に比べると被害が少ない地域もある。でも、日本全国がほとんど感染してる。このままだと、俺たちがバグるのも時間の問題だろう」

 それから彼は立ち上がって窓辺に向かい、カーテンを5㎜ほど開けた。午後4時半の冬のひかりは早くも翳りはじめていて、すぐそこの通りでさえほのぐらい闇に包まれていた。その闇の中に、もぞもぞと蠢いているものがあった。彼らの家の庭先に、電柱柱の影に、スーパーマーケットの曲がり角に、煤のようなぼんやりとした輪郭がいくつも重なってひしめいている。それは地鳴りのような音を発しながら、命を持たない巨大な蜘蛛のようにそこらを徘徊していた。あきらが窓辺に近づくより前に、父親は素早くカーテンを閉めた。そして慌ただしい足取りで玄関の戸締りを確認しに行った。


 居間に残されたあきらは江梨子の方を見た。母親は悲しそうな瞳であきらを見つめていた。まるでこの世の罪悪はすべて自分のせいだと思っているひとのように。彼女は消え入りそうな声で言った。
「バグよ。あれはみんな、バグを起こしたひとたちなの」
「しかも大多数のやつらは手がつけられないほど狂暴化している。しばらく家から出ない方がいい」
いつの間にか居間に戻ってきた正人が言った。彼は窓に鍵がかかっているかもう一度確認すると、ソファに身を沈めた。そして手のひらに顔をうずめ、そのままじっと動かなくなった。うなだれた頭に白いものが混じり、実際の年よりも十年ほど老けて見えた。江梨子は黙って夫の肩をさすった。


 あきらは虚無の中に置き去りにされたように感じた。うまく息が出来なかった。世界中の空気が突然、ブラックホールに吸い込まれたようだった。この世界で実際に何が起こっているのか、あきらは本当の意味では理解していなかった。アポカリプスはもちろん、空気と同じようにいつもそこにあった。けれどそれは大多数の人々にとって、ホラー映画に出てくるちゃちな幽霊みたいなものだった。触れることも、味わうことも、臭いをかぐこともできないそれをどうやって恐れればいいというのだろう。はっきりしているのは『アポカリプス』という名前だけだった。そのせいだろうか、おそらく誰もが自分だけは助かるに違いないと思っていた。あきらも例外ではなかった。まるで神に守られた聖域であるかのように、そこに留まっていれば大丈夫だと無意識に信じていた。

 人々は表向きはいつもと変わらない生活を送っていた。マイクロチップはあいかわらず全国民の一挙手一投足を記録し、政府のコンピューターにデータを送り続けていた。魂の自由と引き換えに、人々は安っぽい保障を手にしていた。誰もが無知の中に生きていた。それは目に見えない地獄だった。



 午後五時を告げる鐘の音が聞こえた。カーテンの向こうで、灰色の空は時を忘れたように静止していた。沈黙が部屋全体にみっしりと覆いかぶさっていた。家族全員が世界の終わりを待っているかのようだった。長い沈黙の後、正人が口を開いた。

「俺たちはお前をフランスにやろうと思う」
「フランス?」あきらは目を丸くした。
「そうだ。フランスはヨーロッパの中ではめずらしく、マイクロチップ制度を導入していない国だ。いや、正確に言うと、2033年に起こったある事件がきっかけでシステムを廃止したんだ。アポカリプス以降、フランスは他の国々を助けるためにバグの研究に取り組んでいるそうだ。もしかしたらマイクロチップを極秘で除去する方法が見つかるかもしれない」
「じゃあ、みんな助かるかもしれないんだね」あきらはぱっと顔を輝かせて言った。
「フランスに行けばお父さんだってもうあんな仕事しなくていいし、お母さんもびくびくしながらスーパーに行かなくて済むんだ」
あきらは勢い込んで言った。けれど両親の顔は翳ったままだった。
「みんなで一緒にフランスに行くんだよね。ねえ、そうでしょう?」
少年は無邪気に繰り返した。しかし彼は石のような沈黙にぶつかるばかりだった。

江梨子はハンカチで目をぬぐった。正人は唇の端を舐めた。彼は一緒に行けないと説明した。曰く、二十歳以上の健康な成人男女は国内の問題解決に努める義務があり、それを果たさない場合には反逆罪と見做される。その上父親は国家に奉仕するエンジニアなので他国に亡命すれば死刑になるし、母親は共犯者として告訴されるだろうと。
あきらは何かを言おうとしたが、喉に石がつまっているみたいに言葉が出てこなかった。

「必要な書類はすべて手配した。フランスに着いたらすぐに由香梨さんに連絡するんだ。彼女のご主人は在仏日本大使館の外交官だから、きっと助けてくれるだろう」と正人は続けた。
「由香梨おばさんのこと覚えているでしょ?」江梨子が尋ねた。
あきらは頷いた。



 由香梨というのは江梨子の姉で、二十年前ほどからフランスに住んでいる。ピアニスト志望だった彼女は若いころにパリの有名な音楽学校に留学したのだった。残念ながら夢は叶わなかったが、彼女はそこでフランス人の伴侶に出逢い、娘の花憐かれんを授かった。由香梨はまだ幼い娘と夫を連れて片桐家を何度か訪れたことがある。アポカリプスが到来するうんと前のことだ。あきらはその伯母の輪郭をおぼろげながら覚えていた。よく笑う元気なひとだったなとあきらは思った。
「これが住所と電話番号。もうすべて説明してあるけれど、出発する前にあきらも手紙を書くといいわ」
息子に紙切れを渡しながら母親は言った。少年は母親の手が震えているのを見た。江梨子は微笑もうとしたが、涙に濡れた瞳と奇妙に歪んだ唇はその努力を裏切っていた。
 あきらは黙っていた。部屋は重苦しい沈黙に包まれていた。胃がきりきりと痛んだ。目に見えない小さな虫が、彼の胃の内側の肉をゆっくりと蝕んでゆくようだった。胃腸炎と去年医者から診断されたのを彼は思い出した。



「フランス語を勉強しなくちゃね!」
重い空気を破って江梨子が言った。
「きっと由香梨おばさんが教えてくれるわ。それに花憐ちゃんもね」
「ああ、そうだな。俺は大学の第二外国語でフランス語を履修してたんだぜ」父親も調子を合わせて言った。
「『ぼんじゅーる』、『めるしー』、えーと、『おるぼわーる』。ほら、なかなか上手だろ?」
彼の発音はあまりにも癖が強すぎて、フランス語のようには聞こえなかった。あきらはくすりとも笑わなかった。正人は構わず即興のフランス語授業を続けた。
「フランス語には、男性名詞と女性名詞があるんだ。おかしいと思うだろ?太陽は男性名詞で、月は女性名詞。電話は男性名詞で、テーブルは女性名詞」
正人は手当たり次第に身近な物を挙げていった。
「それから、薬」
この言葉を口にした時、正人の瞳から光が消えた。まるで悪魔が魂の炎をそっと吹き消したかのようだった。少年は訝しげに父を見た。父親は消えてしまった言葉の切れはしを追うようにしばらく宙を見つめていたが、やがて小さな声で言った。
「いや、なんでもない。胃腸薬、フランスにも持っていくんだぞ」
正人はテーブルの上の煙草を手に取り、台所に行って換気扇を回した。煙が漂い、奇妙な生き物のように踊りながら空間を満たした。江梨子はその煙のゆくえをぼんやりと目で追っていた。

 遠くかすんでいる空の向こうで、太陽が沈もうとしていた。西の空では淡い桃色に紫が混じり、やがて深い藍色へと色を変えていった。けれど厚いカーテンに遮られ、片桐家の人々にはそれを見ることはできなかった。


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