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Vol.17 ふたりのアリス

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。

※『創作大賞』の応募期間に間に合うよう、ちょっとピッチをあげることにしました。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

これまでのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊
Vol.16 森田の秘密


本編 Vol.17 ふたりのアリス

「時々、アリスのことがわからなくなるんだ」
と森田は言った。それはとても小さな声だった。嵐の中で灯したろうそくが消えないように、そっと話しているみたいに。僕は続きを待った。彼はぽつり、ぽつりと話を続けた。
「彼女、ちょっと気分にムラがあるというか、気まぐれなところがあって。料理や家事を機嫌よくこなしてくれる日もあれば、次の日にはベッドに寝転がって一日中何もしないとか、そんなことはしょっちゅうなんだ。たいていは雨の日とか、女性の日なんかにそうなるみたいだね。でもそんな日に限って運悪く来客があったりするわけ。そのあとは機嫌が悪くなっちゃってもう大変だよ」



彼女が台所に向かっている時のぴんと伸びた背筋や、野菜を切るリズミカルな包丁の音、そしてとびきりおいしいペペロンチーノのことを僕は思い出した。それらのことを考えると、森田の語るアリス像と僕の知っている彼女の姿にはいくぶん乖離があった。
「このあいだお邪魔した時は、そんな風に見えませんでしたけど」彼が気分を害さない程度の中立的な声で僕は言ってみた。
「ああ、あれは坂本くんがいたから、張り切っていたんじゃないかな。いいところを見せたかったんでしょう」森田は疲れたように言った。
彼はグラスの中のワインを飲み干すとバーテンダーを呼び、「同じのをもう一杯ずつ」と言った。バーテンダーは小さくうなずき、忠実な影武者のように店の奥へと消えていった。



「つまらない話を聞かせちゃったね」と彼は言い、微笑んだ。
「とんでもない。すっかりのろけられちゃって、羨ましいですよ」と僕は何の気なしに言った。
すると森田の目つきが急に変わった。ぎょろりと眼を剥いたその白眼の部分が赤く血走っていた。
「羨ましいって?本気でそう言ってんの?」
彼は吐き捨てるように言った。額に青筋が浮き、唇の端が細かく痙攣し、目は青白く燃えたぎっていた。ひとを殺しそうな顔というのはこういう顔のことを言うのかもしれない。けれど怒りの炎は一瞬にして消えた。彼はたばこの煙を吐き出すように、天井に向かって長い息を吐いた。なんだか彼はとてつもなく疲れているように見えた。



「ねえ、坂本くん。アリスがふたりいるって知ってた?」長い沈黙の後、彼はかすれた声で言った。
「どういうことですか?」と僕は尋ねた。
彼は長い間、じっと僕の目を見つめていた。それは真実を知らないひとを憐れんでいるような目だった。それから両手の指を組んだりほどいたりしたのち、話し始めた。
「俺ね、結婚する前は、アリスがひとりしかいないと思ってたんだ。優しくてかわいいアリス。童話の中に出てくるみたいに無邪気なアリス。俺がちょっと指を怪我しただけでも大げさに涙ぐんでくれるような。俺が好きになったのは、そういうアリスなんだ」
彼は自分の手を見つめながらつぶやいた。まるでそこに手のひらサイズのアリスがちょこんと乗っかってでもいるように。
「でも、いつのころからだろう。アリスは俺の知らない女になってしまった。俺も仕事だの接待だのって、家を空けることが多かったから、ひとりで寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれない。友だちとも家族とも遠く離れた日本で、心細かっただろうと思う」
ふと、はじめて会ったときのアリスの悲しそうな笑顔が浮かんだ。本当のことを言うと友だちがほしかったの、と言ったあの日の彼女の声が耳元でこだました。



 森田はひとごとのように淡々と続けた。
「機嫌のいい日はいつもの優しいアリスなのに、別の日には悪魔みたいになる。あんたのせいでわたしの人生台無しよ、って怒鳴るんだ。あんたのことなんてもう愛してないの、離婚する日を待ってるの、って。一度そうなったらもう手が付けられない。わめくわ、暴れるわで大変だ。硝子の灰皿を投げられたこともある」
彼はワイングラスに手を伸ばしかけたが、それはすでに空だった。そこでバーテンダーを呼び、新しいものを頼んだ。もうこれで3杯目だ。バーテンダーは一礼し、店の奥に去った。しばらくすると彼は飲み物を手にして現れ、夜の燕のようについと消えた。森田はあおるように深紅の液体を流し込んだ。ひとくち飲むごとに、彼の背後に漂う闇が濃くなってゆくように見えた。彼は続けた。


「彼女が激高する日は台風みたいで、どういう理由でそうなるのか、誰にも予測ができない。でも翌日にはまたいつものアリスに戻って『昨日はごめんなさい』って言うんだ。『電球が切れてるから買ってくるわね』って言うみたいに、あっさりと。それで俺も許してしまう。何もなかったようにふだんの日常に戻る。一週間、二週間と何事もなく過ぎる。でもある日、あれがまたやってくるんだ。悪魔に憑りつかれてるみたいに、彼女は言うんだ。『触らないでよ、汚らしい』って。ねえ、俺はどっちのアリスを信じればいいんだろう」

そこで森田はふと口をつぐんだ。まるで誰かが彼の後ろに回ってばちんと電源を切ってしまったみたいに。彼はどこか遠くの点をじっと見つめたまま、しばらく動かずにいた。息をするのさえ忘れてしまったみたいだった。暗い沈黙が霧のようにたちこめていた。彼は圧倒的な闇の中にいた。闇があまりにも濃かったので、そこだけいくぶん磁場が歪んでいるようにさえ見えた。
 僕は彼が話している間、ひとことも口にすることが出来なかった。空気が呪いのように口から肺へと入り込み、躰中の器官を侵そうとしているみたいに息苦しかった。そろそろ終電の時間だと頭の隅ではわかっていたが、金縛りにあったようにその場から動けなかった。森田はどこか遠くの一点を呆けたように見つめていた。それから空気の中に投げ込むようにぽつりと言った。
「でも、俺はアリスを愛してるんだ」
彼は手のひらに顔をうずめた。そして肺の中の汚れた空気を吐き出すように、深いため息をついた。あるいはそれは嗚咽なのかもしれなかった。



 終電には間に合いそうもなかったので、森田がタクシーを呼んでくれた。帰りのタクシーの中で、僕たちは終始無言だった。彼は目をつぶったまま、ぴくりとも動かなかった。あまりにも静かだったので、死体の役を演じている俳優のようにも見えた。窓の外を通り過ぎてゆくネオンライトが彼の顔を青白く照らしては、また消えていった。

 僕は先ほど森田が言ったことについて考えていた。夕飯に招待されたときのふたりは、仲睦まじい夫婦にしか見えなかった。それにあのアリスが悪魔のようになってしまうなんてとてもじゃないが信じられなかった。アリスがふたりいるだって?アリスAとBがいて、かわるばんこに出没するとでも言うのだろうか。かといって森田が嘘をついているようにも見えなかった。仮にそれが虚構の話だとしても、僕にそんな話をする理由がないではないか。



 運転手がカーブを切り、車は新宿駅に差し掛かった。東口の電光掲示板に旅行会社の宣伝ビデオが映し出されていた。3人組の女性アイドルグループが「海外行くならお得価格のH社で決まり!」と声をそろえて叫んでいた。僕はふとアリスがフランス行きの航空券を予約していた時のことを思い出した。
「ねえ、わたしはオットを愛しているのよ」と彼女はあの時、確かに言った。何かを頑なに宣言するような彼女の声とシリウスのような瞳を僕は思い出した。それから「フランスまでオットと一緒じゃ息が詰まるもの。ひとりで行くわ」とも言った。オットは本を読まないのだと、何か汚らわしい生き物について語るかのように話したその口で、オットとの子どもが欲しいと言ったこともある。まるでふたりのアリスがふたつの口で交互に別のことを話しているみたいだった。


 やがてタクシーは森田家の前に着いた。彼はタクシーを降りる際、僕の手に一万円札を握らせた。僕はびっくりして彼を見た。
「これ、タクシー代。今日はみっともないところを見せちゃったね。これに懲りずにまた付き合ってよ」と彼は笑った。それは僕の知っている、クールで知的ないつもの森田だった。そして彼は先ほどより少しましな足取りで家に向かった。あの延々と続く坂道を登って、アリスの元に帰るのだろう。ひっそりと狂気の眠る家に。 
 ふと見上げると、藍色の幕を張ったような空に満月が煌々とひかっていた。それは金色の瞳みたいに、地上に起こるすべての出来事を見つめていた。


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