見出し画像

『アリスのための即興曲』Vol.43 エピローグ

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
このVol.42で最後になります。
これまでお付き合いくださった皆さま、
スキやコメントをしてくださった皆さま、
本当にありがとうございました。
皆さまに幸あれと、願っています。
では、どうぞ。


初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.41 アリスの日記 もうひとりのM


本編 Vol.42 エピローグ




 愛する理生りおへ 

 あなたがこの手紙を読むころには、私はどこか遠い場所にいることでしょう。はじめての歯が生えたり、よちよち歩きをしたり、小学校の運動会に参加したりするあなたの様子を見届けることができなくて、申し訳なく思っています。でも、どうかわかってください。私のような女と一緒にいるより、時子おばあさんといる方が、あなたにとって何千倍も幸せなのだということを。 

 女性はみんな聖母になるべきだと世間の人々は思っているようですが、私には母親になる才能がないのだと思います。魚が水を離れては生きていけないように、私にとっては男性の愛が必要なのです。毛布に包まれるようなやわらかい愛情ではなく、嵐のような強く激しい愛です。ねえ、誰かを深く愛したら、その人を自分の魂の半分のように欲するのは当然のことじゃありませんか? 

 はっきり言いましょう。私は妻でありながら、別の男性を好きになってしまいました。それはある日ふと立ち寄った、華道具を扱う店の店主でした。そのひとを見たとき、私は頭を殴られたような衝撃を感じました。このひとこそが本物の運命のひとだと、一目見たとたんにわかりました。私は彼に強烈に惹きつけられると同時に、とても恐ろしくなりました。なぜって、今までの私の人生は偽りだらけだったと思い知らされたからです。 

 あなたのお父さんはとても優しくて魅力的なひとです。私のことをとても愛してくれましたし、私も自分なりに彼のことを愛していました。でも彼には、何かとても大事なものが欠けていたように思います。何が何でも生き残ってみせるという強さが。例えば、嵐が来て、大勢の客を乗せた船が転覆するとしますね。そこに救助隊がやってきて救いの手を差し伸べたとします。そんな時、あなたのお父さんは「僕は大丈夫ですから他の方たちを助けてください」と言うようなひとでした。その心がけは立派だと思います。でも、優しいだけでは生きていけないのです。そう思いませんか? 

 それにあなたのお父さんは、私が外の世界に出ていくことを望んでいませんでした。私はパートタイムの仕事をしたかったのですが、彼は許してくれませんでした。それどころかちょっと買い物に行くことや、友達と会うことにだって、いちいち許可が必要だったのです。なぜだかわかりますか?あなたのお父さんは、私を別の男に取られるのが怖かったのです。はっきりと口に出しては言いませんでしたが、私が他の男性と話している時の彼の眼差しを見れば、そこに嫉妬の炎が浮かんでいるのがありありと見てとれました。 けれど私は家庭という牢獄の中で朽ちてゆくことが我慢できませんでした。私には自由な空気や、カフェでの洒落た会話や、女友達とのちょっとしたショッピングなどが必要だったのです。「良妻賢母」などと言いくるめられ、安っぽい家政婦に成り下がってゆくことに、私は耐えられませんでした。 

 私がその運命のひとと出逢ったとき、お腹の中にはすでにあなたがいました。私はとても悩みました。私には母親であると同時に誰かの恋人であるなんて、できませんでした。先にも書いたように、私にはその力量がないのです。正直に言うと(どうか許してください)、堕胎することも考えました。けれど何の罪もないあなたの命を奪う権利なんて私にはないと思い直しました。それで考えたのは、あなたを時子おばあさんに預けて、そっといなくなることでした。彼女が私をよく思っていないことはわかっていましたが、他に頼れるひとがいなかったのです。私は家族や親戚と絶縁状態ですし、兄弟姉妹もいませんから。 

 あなたは私のことをきっととても憎んでいるでしょうね。自分の人生からさっさと姿を消してしまった女のことなど、母親と思いたくもないでしょう。あなたの気持ちは理解できるつもりです。けれどあなたが私を死ぬほど憎んでいると想像すると、胸が張り裂けそうになります。 

 どうかこれだけは覚えていてください。私はあなたのことを深く愛しています。あなたの人生に関わることはできませんが、いつもあなたのことを見守っています。時子おばあちゃんの言うことをよく聞いて、どうか元気でいてください。生まれ変わったら、きっと来世で会いましょう。 

                                                                                                                                            坂本美里みさと                                                                                                                                  あなたの母より  

                                      *****


 その手紙は淡いグリーンの薄紙に青いインクで書かれていた。女性らしい、線の細いたおやかな文字だった。鼻を近づけると、古い紙独特の甘い匂いとかすかな白粉の香りがした。それは僕自身に書かれたものだというのに、なぜか知らないひとへの手紙を盗み見てしまったような気持ちになった。僕はその手紙についても、手紙をしたためた人物に対しても何の感情も抱くことができなかった。ただ、口の中に苦い味がした。僕は手紙を読み終えると、それを封筒の中に戻した。そして元通り祖母が使っていた桐の箪笥の引き出しにしまった。 



 祖母は肺癌が再発してあっけなく逝ってしまった。医者の話では、癌細胞がリンパ節に転移したのだろうということだった。もうかれこれ一か月前のことになるというのに、僕は未だに彼女の不在に慣れることができなかった。祖母はどこか遠い場所に旅に出たのだと考える方が、なんとなく理にかなったことのように思われた。しばらくしたらお土産でも持って、ひょっこり帰って来るのではないだろうか。草津はよかったよ、一緒におまんじゅうを食べようなどと言って。けれどいつまで経っても彼女は帰ってこなかった。 

 そのうちに部屋の中の沈黙はだんだんと大きくなっていった。しんとした台所で、珈琲を沸かしたり冷蔵庫を開けたりする物音がやけに響いて聞こえた。食器棚の中の皿たちはじっと息をひそめ、換気扇は死んだように動かなかった。家具たちは僕のことを胡散臭そうに見つめていた。まるで彼らの眠りを覚ます侵入者のように。彼らは家主がいなくなったことを、僕よりもよくわかっているように見えた。 

 僕は遺品整理を済ませて家を売ることにした。賃貸物件として残すことも考えたが、祖母のいない家に別の誰かが住むことがどうしても想像できなかったのだ。それから大学を中退して誰も知らない遠くの街に引っ越した。僕はそこで塾講師として働き始めた。担当科目は現代文と英語で、週4日勤務した。僕の授業はわかりやすいとたちまち評判になった。上司や保護者からの信頼は厚かったし、生徒たちも僕のことを好いているようだった。学期末アンケートによると、僕は人気講師上位3位内に必ず食い込んでいた。収入だって悪くなかった。働いている間は何もかもを忘れることができた。まるで自分のかたちにすっぽり開いている空間に身を置くみたいに、そこにいると不思議な安心感を感じた。 


 最悪なのはむしろ休みの日だった。アパートの部屋にひとりでじっとしていると、沈黙が壁のように迫ってきた。リノリウムの冷たい床の隅に、兎穴がぽっかりと口を開けているのが見えた。もしかすると、僕は生まれてから一度も兎穴の外に出たことがないのかもしれないと、ふと思った。母は赤ん坊の僕を祖母に預けたのではなく、実際には穴の底に置き去りにしていなくなってしまったのだろう。そう考えると、言いようのない恐怖に襲われた。
 

 時間は蛆虫のようにぐずぐずと過ぎていった。まるで僕をいらだたせることだけを目的としているように。時の経つのがやたら遅く感じられた。一秒も一時間も同じように感じられた。世界から色彩が消え失せ、自分ひとりだけがモノクロの世界に取り残されたように感じられた。そこでは味も匂いもなく、音は遠くからくぐもって聞こえてきた。僕は穴の底に横になり、躰が勝手に息をするのに任せていた。そこにそうしていれば躰が腐って時間の向こうに連れて行ってくれないだろうかと願った。だがそうはならなかった。


  ある朝、僕はいつもより早く目が覚めた。ベッドの中でしばらくごろごろしていたが、眠れそうになかったので起きることにした。カーテンを開けて窓を見ると、春先の淡い空にまだ白い月が浮かんでいた。朝の空気は肌を刺すように冷たく、気の早い雲雀がさえずりながら空を横切っていった。新聞を取ろうと思い、パジャマの上にカーディガンを羽織って家の外に出た。すると玄関口に女の子が立っていた。 


 彼女はベージュ色のスプリングコートを着て、ポケットに手を突っ込んで所在なげに立っていた。コートの下は若草色のセーターと細身のジーンズという格好で、真っ白なスニーカーを履いていた。つややかな栗色の髪の毛の下に、生真面目な眉毛と黒目がちな眼があった。それは中山伊織だった。


「こんなところで何してるの?」僕は言った。

「あの、ぶらぶら散歩してたら足がこっちの方に向いたから」彼女はどもりながら言った。

僕はあきれてしまった。僕の新しい引っ越し先は東京郊外にある。彼女の自宅がどこにあるか正確には知らないが、少なくとも徒歩圏内ではないはずだ。ここは僕たちが通っていた大学からはかなり遠く、電車に乗っても1時間はかかるのだ。

「えっと、本当言うと、学生課に行って坂本くんの引っ越し先を教えてもらったの。私が学長の娘だってことは学生課のひとたちはみんな知ってるから、住所を聞き出すのはかんたんだったわ」

彼女は僕の疑わし気な視線に耐えかねたように白状した。そしてきまり悪そうに続けた。

「勝手に押しかけてごめんなさい。でも、坂本くんにメールを送っても届かないし、大学からは消えちゃうし、他にどうしようもなかったの」

「どうしてそこまでして僕に会う必要があったの?」
僕はため息をついて言った。
こんな死人みたいな自分に、まだ用がある人間がいるなんて驚きだった。僕が世界を忘れたくても、世界は僕を忘れてくれないみたいだった。中山伊織はパスタが茹で上がるくらいの時間ぶん黙っていたが、やがて言った。

「坂本くんが相変わらず宇宙人と一緒に暮らしているか、気になったから」

僕は思わず吹き出した。それから改めて彼女の顔を見た。彼女は色のない唇を嚙みしめて、下を向いていた。何かを待ちわびるように眉根をぎゅっと寄せて。よく見るとその小さな肩は震えていた。誰かに何かを伝えるのは、とても勇気のいることなのだ。

「よかったら上がっていく?宇宙人はいないけど、珈琲くらいならごちそうするよ」

彼女はゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。春の太陽がゆるゆるとのぼり、僕たちの冷え切った躰を温めようとしていた。空気の中には、何か夢見るような甘さが微かに漂っていた。中山伊織はどこか遠くからやってきた妖精のように静かな足取りで、アパートの玄関に足を踏み入れた。

                               〔完〕

この記事がいいなと思っていただけたら、サポートをお願い致します。 いただいたサポート費はクリエーターとしての活動費に使わせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!