見出し画像

日本人の権力・権威観

 こんなツイートがあった


 また、これと同じようなデータもあった。

 どこかで聞いたことのあるようなデータだが、ようするに、日本人は権力・権威を尊重しておらず、むしろ嫌っているということだ。詳しくはリンク先のページを見てほしいが(若干データが古いけど適当に調べたので許して・・・)、このデータは、一見日本人の感覚に反するところがあるようにも思える。

 なんとなく、日本人は権力・権威に弱くて集団主義、というイメージが世の中にはある気がする。ぼくもイメージとしてはそう思っていた。しかしとまべっちーさんのツイートにもあるように、それは間違いなのだ。これはいったいどういうことだろうか。

 上の記事ではこのように説明している。

このような状況を踏まえ、日本ほど権威・権力の必要性を感じていない国はない理由を考えて見ると、①戦国時代から江戸時代に移り変わって以降、長い間権力の空白で痛い目に合うという経験をしていない、②戦後における政情の安定、③国民性としてすでに十分に権威や権力を尊重しているという自覚、④権力者の横暴をいさめる儒教的な考え方、などによるものであろう。

 これらの理由は多かれ少なかれ、どれも正しいだろう。とくに良くも悪くも政情が安定している(というか固定化している)ことは大きな原因と言えるだろう。

 ところで、まず権力・権威とは何だろうか。権力とは「他人を強制し服従させる力(ウィキペディア)」、権威とは「すぐれた者として、他人を威圧して自分に従わせる威力。また、万人が認めて従わなければならないような価値の力(オックスフォードランゲージ)」と説明できるだろう。もちろんこの二つは似たような意味をもったり、重なり合うこともあるだろうが、とりあえずこのようなものだとしておく。

 このうち、とくに権威については、日本社会に実は根付いていないというのは明らかだろう。そしてそれはインターネットの発達によってより顕著なものとなった。今もまさに池内教授(たぶん東大教授)がネット右翼とカテゴライズされる人たちに攻撃されているが、とくに学術的な話において権威とあるべきものがないがしろにされているというのは、近年よく見られる現象といえる。コロナ禍での医学的な問題、日本学術会議に対する(一部の)世間の反応なども似たような話だろう。

 また、権力についても、権威ほどではないにしても同じことが言えると思う。与党の政治家は一定の支持をされつつもバカにされることがあるし、政治家にしろ、大企業の社長や資本家にしても、少なくとも「尊重されている」と言い難いだろう。彼らに従うことはよくあるとしても、敬意が払われていることはあまりないように思う。

 これらのことを一言でまとめれば、「偉そうなやつが嫌い」ということだ。とうぜん僕も偉そうなやつは嫌いだ。しかし本当に偉い人(もの)はやはり尊重しなくてはいけないと思う。民主主義社会においては、国民の代理であり代表者である政治家のことは尊重しなくてはいけないし(それは批判してはいけないということではない)、ある分野について学識ある人がした発言は、そうでない人がしたそれよりも尊重されなくてはいけない。

 権威は尊重されなくてはいけない。それは固定的なある人物を盲信するということではない。そうなってしまえば行き過ぎた権威主義だが、そうではなくて、優れているものは、優れていると認めなくてはいけないし、ある基準値というか参照点というものはたしかに存在するということだ。

 ところが現代は、インターネットの発達などから「社会の民主化」が加速度的に進んでいる時代だと思う。そして思想家のオルテガは、このことを正確に予期していた。

ところが今日、平均人は宇宙に起こるすべてのこと、そして起こるはずのすべてのことに関して特別明確な「思想」を持っている。だから彼らは他人の話を聞く習慣を失ってしまったのだ。

『大衆の反逆』岩波文庫 p.148

 

私が言いたいのは、私たちの隣人が拠るべき市民法の原理がないところに文化は存在しないということだ。討論の際に言及されるような、いくつか究極的な知的立場に対する尊敬の念がないところには文化もない。

同上、p.149

  『大衆の反逆』には正確で辛辣な批判と、ともすると(ある種)魅力的すぎる言葉がちりばめられている。それはともかく、ここで言われている「私たちの隣人が拠るべき市民法の原理」「いくつか究極的な知的立場」とはつまり権威であり、社会の基盤となるべきものだ。これが揺らぐことがいわゆる「社会の底が抜ける」ということだろう。

 ここまで「権威」を擁護するようなことを書いてきたがしかし、現実には「権力(とそれを構成する権威)」というものは大いに力をふるっているし、尊重されているようにも見える。その典型例は国家権力だ。調査の中では権力は尊重されるべきではないとされているにも関わらず、日本の国家権力や警察権力は安定した支持を得ている。これはどういうことだろうか。

 オルテガは国家に対してこう言及している。

一方、大衆は国家の中にいわばのっぺらぼうの権力を見ている。そして彼自身も自らをのっぺらぼう—凡人―だと感じているので、国家を自分自身のものと信じ込んでいるのだ。

p.214

国家は何よりもまず安全性(そこから大衆化した人間が生まれることを忘れないでもらいたい)の創り手である。だから国家はまず何よりも軍隊なのだ。

p.216

 オルテガの言葉やぼくの少ない知識でもって早急に結論を出すわけにはいかない。しかしここで一つの仮説を立てるなら、「日本人の権力・権威嫌い」に当てはまらない権力(権威)については、ひとはその権力と同一化しているのではないだろうか。その典型例がいま引いた国家権力である。そしてこのことは、上のオルテガの記述と「国家に安全を求めるが権威を嫌う※1」という日本人の価値観調査結果を比較するとき、説得力を帯びてくるだろう。またこのことは、「なぜ労働者が資本家の立場でモノを考えてしまうのか」という話ともつながってくる気がする。

 というわけで僕の暫定的な結論としては、正当な権威は尊重しなければならないが、権力(権威)に飲み込まれてはいけない、ということになる。

※1


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?