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オルテガ『大衆の反逆』要約④(時代の高さ)

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 さて、第3章「時代の高さ」に入っていく。この「時代の高さ」とはいったい何だろうか?

たとえば、あれこれのものは時代の高さにはそぐわないなどと言うことがある。それぞれの世代が「われらの時代」と呼ぶものは、年代学の平面的な抽象的時間ではなくて生の時間であり、常にある高さを持っていて、今日は昨日よりも高くなったり、あるいは同じ高さを保ったり、あるいは低くなったりする。
没落という言葉に含まれている「落ちる」というイメージは、このような直感に由来する。

『大衆の反逆』 岩波文庫 p.88

 たとえば、「昭和は活気があって、良かった」「平成の失われた30年を経て、日本は没落しつつある」などと言うときに、「時代の高さ」というものが表れている。

 また、たとえば「21世紀になってもまだ戦争しているのか」「この令和の時代に……」などと言うときにも、この概念が関係してくる。「戦争なんかはこの時代にはふさわしくない」という感覚がここにあらわれているのだ(残念ながらそう感じたからといって戦争はなくならないが)。

 「昔は良かった」とか、「今は良い時代だ」とかひとは言うわけだが、これもまた同じような感覚に基づいている。このような自分の時代と過去の時代の比較は、いつも同じ結論に至るわけではないが、一定の傾向を見つけ出すことはできる。

ほとんどすべての時代において、自分たちの時代の方が他の過ぎ去った時代よりもさらに優れた時代だとは思えないのである。むしろ普通なのは、人びとが過去のある時代の中に、さらに充実した生を持つ優れた時代をぼんやりと想定することだ。

p.90

 なんとなく思い当たるところがあるのではないだろうか。日本だったら高度経済成長期とか、アメリカなら1920年~の「狂騒の20年代」などはこれにあたると思う。そういう気持ちが人々の中にうっすらとあるから、「Make America great again!」とか、「日本を取り戻す!」とか言われるわけだ。

 しかし当然、「時代の頂点」のようなものに到達した(と感じた)としても、時代は続いていく。

忘れてはならないのは、私たちの時代は頂点を極めた後にきた時代だということである。

p.93

 われわれは近代以降の時代を生きている。とくに西洋世界(日本も含まれるだろう)はそうだ。

しかし歴史を大事にし、時代の脈拍をしっかり取り続けてきた私のような老学徒は、そうしたまやかしの頂点という見方に惑わされることはない。

p.93

 (笑)


 近代と近代以前には大きな違いがあるとオルテガは言う。

事実、私たちの時代はすでに自らを決定的なものとは感じていない。むしろ反対に、決定的で確実な永遠に結晶した時代などというものはなく、生の一時代——いわゆる「近代文化」——が、自らを決定的であるとする思い込みこそ、視界に生じた信じがたい頑迷さと狭量さではないか、という漠然とした直感がその根底に見いだされる。

p.95

 ニーチェの言葉に、「我々はもはや(他のいかなる時代とも違い)〈真理〉が存在しないことを感じている。デカルトは、懐疑をしているときでも真理の存在を疑わなかったのだが、今はそうではない。」みたいなものがあったが、それと似たような話だと思う。

 社会全体が、あるいは世界全体が目指すべき方向が見失われている。社会主義の理想は破れたように見えるし、ファシズムもそう。国際協調で平和を目指すのは現在進行形で裏切られているし、デモクラシーの理想もずいぶんあやしい。経済大国を目指す気運なんてとうに失われ、少子化が加速するなかでとりあえず目の前の資本主義を乗りこなすしかない。そういう世界に私たちは(とりわけ先進国の人は)生きているのではないだろうか。

私たちはもはや明日の世界に何が起こるのかもわからないし、そしてそのことが密かに私たちを喜ばせてもいるのだ。なぜなら、見通しが利かないということ、地平線があらゆる可能性に開かれているということ、これこそが真正なる生、つまり生の真の充実だからである。

p.96

 ちょっと話がマクロ的すぎる気もするが、おおむね間違ってはいないだろう。オルテガは私たちの時代を簡潔にこう表す。

他の時代より以上のものだが、おのれ自身より劣る時代

p.101


 


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