見出し画像

雑記⑩ (現実・言葉・イメージについて)

 現実とは何か。古東哲明は『〈在る〉ことの不思議』のなかで、「《現に生きられ現に在ること》、それを現実あるいは存在と呼ぶことにしよう。・・・まさに〈今ここ〉のこの現象、この直接性というほどの意味である」と説明している。手あかのついた印象を避けるために「現実生起」とも言い換えている。

 こういうツイートもある。

 これは「現実性」の説明だが、「先行的分母性」という言葉が使われている。これは言い換えるなら存在者に先だって土台としてあるということだろう。

 ”reality”は現実・存在・真実などの多義的な意味をもつ。現実が先立ってあるものだとするなら、それは何にも限定(分節化)されないことになる。イデア・一者と呼ばれるものは、このことと関係している気がする。


 言葉について。言葉(言語)ってなかなかすごいと思う。単なる線の組み合わせ、形にすぎないのに、それでものを考えることができるし、それでしかものを考えることができない。

 たとえば「生」「死」「悪」という言葉。こんなにシンプルな形なのに、実に豊饒なイメージを与えてくる。「残虐」「静謐」とかもそう。それぞれ、イメージが凝縮されている。ではその言葉(の背後)にこめられているものは一体何なのか?

 余談だが、とくに漢字はこの”イメージ”が強い気がする。アメリカ人からしたらそんなことないのかもしれないけど、”adult”よりは”大人”の方がより「大人な」感じがする。漢字は形象文字だからだろうか。
 


 イメージについて。丸山真男の『日本の思想』にこんな文章がある。ちなみにここで出てくる「イメージ」とは、哲学でつかわれるところのイメージというよりは、一般的な意味合いのものだろう。

現代のようにコミュニケーションが非常に発達しますと、こういうふうにして何となくいつの間にか広がっていったイメージがほんものから離れて一人歩きするわけであります。

『日本の思想』 p.138

 

われわれが作るいろいろなイメージというものは、簡単に申しますと、人間が自分の環境に対して適応するために作る潤滑油の一種だろうと思うのです。

同上 p.139

ところが、われわれの日常生活の視野に入る世界の範囲が、現代のようにだんだん広くなるにつれて、われわれの環境はますます多様になり、それだけに直接手が届かない問題について判断し、・・・行動せざるをえなくなってくる。
つまりそれだけわれわれがイメージに頼りながら行動せざるをえなくなってくる

同上 p.139

 丸山真男は大事なことをいっぱい言っているので、どんどん引用したくなってしまう。現代の私たちは、主にインターネットの発達によって、身近でない世界のことも色々知ることができるようになった。世界が狭くなったともいえる。しかし自分から「遠い」ことについて精密に把握することは難しいので、必然的に大まかなイメージに頼らざるをえなくなってくる。いまの私たちは丸山の分析した状況をさらに推し進めた地点にいる。

 少し話はズレるが、ある時代の何かを分析するときに、その渦中にいると逆にうまく何が起こっているのかを分析できないということがあると思う。つまり、たとえば戦時中には、もはや冷静にその状態を知ることができないのではないか。戦争が起こりそうな過渡期、あるいは戦後という、その現象(この場合は戦争)から少し距離があるときに、冷静な分析が可能になるということはあると思う。

 だから、今の時代について知ろうと思ったら、時間が経つのを待つか、あるいは今の時代になったときのこと(今の時代の原因)を知る必要がある。スマホが日常となった現代について知るためには、なぜスマホが生まれたのか、スマホがある前はどうだったのかを知らなくてはいけない。

 話を戻すと、イメージはとても強力で不可避のものだから、とくにインターネット時代の今こそ慎重に扱わなくてはいけないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?