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雑記(古典不要論など)

 なぜか知らないが、ツイッター(現X)では定期的に「古文・漢文などの古典教養は必要なのか」という論争が巻き起こる。そもそも古典と言ったって様々なわけだが、こういう場合は古文・漢文を指していることが多い。

 もし仮に単に「古典は不要だ」と言われれば、僕はまっさきにそれに反対するだろうが、古文・漢文となると自分が全然できないこともあり、「一考の余地あり」という風にも感じてしまう。

 とはいえ、もちろん僕は古文・漢文などの古典が必要ないとは思わない。その一番の理由は、広い意味での〈歴史〉を知らなくてはいけないから、ということになる。要するに、私たちは地球の、人類の、日本の歴史の中で生きているのであって、過去とつながっている。何でもそうだが、言葉もまた自分で作ったわけではなく、すでにある言葉を(少しづつ変形しながら)受け継いで使っている。古典を学ぶとは、昔の言葉を知るということだが、これはつまり今の元になっている昔の思考を知るということでもある。それは「今」を相対化することであり、同時に「今」を知ることでもある。

 今とは違う言葉・思考を知るというのは、自分の世界を広くするということだ。それは太宰治の言葉で言うと、自分を「カルチベートする」ことになる。

 とはいえ実際問題、(僕も含めて)ほとんどの人が、古文・漢文も関数も物理・化学も忘れてしまっているだろう。しかしだからといって、じゃあそれがまったく無駄だったのかといえば、そうではないだろう。これらの教科は、ごく一部の優秀な研究者を生み出すためにも必要であり、またそうでない人を「カルチベート」するためにも必要なのだ。なぜなら人間は「ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)」だからである。

 こういう風にして、そもそも「どのような教育が必要なのか」という問いは、「人間とはどういう存在であり、またどうあるべきなのか」という問いにつながっていくわけだが、ここではそこまで風呂敷を広げる必要はないだろう。というかこの問いを直截に論じることは今の僕にはできない。


 「古典(古文・漢文)は役に立たない」というとき、この文章は一体何を意味しているのだろうか。それが問題だ。「役に立つ」という言葉については以前こういう記事を書いた。

 たしかに、古文・漢文は、ある職業についたり、科学技術を発展させるのには役に立たないかもしれない。しかし、人はパンのみに生きるにあらず。人間は動物でも機械でもないのだから、「(何か生活をする上で直接には)役に立たない」ことを学ぶのは当たり前のことだ。もしそれをする余裕がないのだとすれば、それは現状の社会の状態がおかしいと言わざるを得ないだろう。

 とはいえ、すでに言ったように、ぼくは古文も漢文も全然できない。では何でこんな記事を書いているのかというと、(とくに歴史的な)学問に対する姿勢が大事だと思うからだ。別に日本国民全員が古典に親しんでいる必要はないし、そんなことは不可能だ。しかしそうだとしても、「古典(古文・漢文など)は大事だよね」というコンセンサスがあるかないかは大きな違いだと思う。それは先にも触れたが、〈歴史〉に対するリスペクトがあるかどうかということだ。

 厭らしくオルテガを引いておこう。

前世紀にとって、あれほど自慢の種だった学校は、大衆に対して近代生活の技術を教えることはできたが、教育することはできなかった。つまり力強く生きるための道具は与えたが、大事な歴史的責務に対する感受性は与えなかったのだ。近代的な諸手段についての誇りや力はあたふたと接種したが、精神は与えなかった。したがって彼らは精神とは一切の関係を持とうとはせず、新世代は、世界がまるで先人たちの足跡も無ければ、申し送られた複雑な問題も無い天国であるかのようにして、世界を手中に収めようとした。

『大衆の反逆』

 という風に書いてきたわけだが、白状すると、自分で書いておきながら完全にこの意見に納得できているわけではない。それなりに正しいとは思うが、2割くらい納得できない気持ちが(古文・漢文必要論に対して)あるということを最後に示しておく。

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