見出し画像

『箱男と、ベルリンへ行く。』(八)

「ストライク・ジャーマニー」(2)
 
唐突に、ここで『箱男』の話をしたいと思います。
小説『箱男』には段ボールを被って街を徘徊する男が登場します。
箱を被ること、それがなにを意味するのか、すでに様々なところで語られている、「見る=見られる」という関係からの逸脱です。
この社会は、我々が完全なる客体であることを許しません。見ていると同時に見られている参加者たらねば社会の構成員として見なされません。わたし達はつねに、視線をさらし、視線にさらされています。それが社会に登録される宿命であり、登録されなければ誰も社会的に生きられません。
しかし、「箱をかぶる」、ただそれだけの単純なことで、視線にさらされずに済む。つまり見る=見られる関係性を無効化できる。箱男は見る=見られるという二項に『外部』という第三項を導入した存在であるわけです。では、完全なる客体となり、社会の登録から逸脱した存在となりえた時、人はどうなるか……、人々はそんな存在をどのように捉えるのか……、『箱男』はそんな途方もない実験を文学という磁場において試みているのでしょう。
(ブルネレスキが発明したと言われる、いわゆる鏡を利用した透視図法は、視点と対象の関係から自己を消失させるという意味に置いて、『箱男』の概念と似ていると私は考えています。逆に、安部公房が文学において、透視図法的アプローチを実験した小説が『箱男』なのではないかと考えたりしています)
以上の話は、直感的に何かに通じている気がしませんでしょうか。
見る=見られる、イエス=ノー、敵=味方……、そうです、『箱男』は二項のみに先鋭化させられた磁場、それ以外はすべて無効化するような言説からの逸脱を試みていると言えます。
ちなみに、敵と味方(友)を峻別する行為は極めて政治的です。敷衍して言えば、「ストライク・ジャーマニー」や、映画祭に参加するか否かを問う行為も極めて政治的だと言えます。
そんな峻別された友と敵という世界観に「外部」を導入する「箱男」は、実は政治性からの逸脱だとも言えるのではないでしょうか。
ここから先は少々複雑になるのですが、思い切って進めてみましょう。
政治性からの逸脱、社会的登録の拒否、自らすすんで『外部』の者となる=「箱男」の世界では、先の二項対立とはまったく別の新たな価値感が立ち上がります。曰く、ニセモノか本物か……、それが執拗に問題視されるようになるのです。
社会的な本物(つまりそれは我々一般人でもあります)は、国家によって登録され、権威づけられる者のことです。しかし「箱男」世界ではそれはニセモノであり、社会的に世俗を捨て去って本当のニセモノになることこそ、本物の「箱男」だということになります。ややこしい。このツイストが「箱男」を難解せしめているかもしれません。
 
さて、私の考えでは、政治とは極めて厳しいものであるはずです。刹那的に正義と不正義を峻別しなければなりません。常に政治的にあるということは、自らと同時に他者にすらその峻別を強いるということです。生活空間の全てが、そのような時間で埋め尽くされたら……、人間は逆に社会的生活を営めなくなるはずです。
例えば、パパ友や同僚など、ゆるいつながり同士の飲み会の席で、刹那に正義と不正義を峻別し、それを他者に強いる人物に、豊かな社会的人間関係が構築できるとは私は到底考えられませんし、それは、ほとんど暴力的と言っても良いほどの息切れする態度の継続と言えます。
そうした息切れするような厳しい政治空間で市民生活空間が埋め尽くされぬよう、人は、自らの生活に政治以外の余白を常に残しておこうという知恵を働かせてきました。
 
その余白こそ、様々な『非政治』空間です、例えば観光や観劇やスポーツなど、そして時には映画や文学に触れることなどでしょう。(と、今は暫定的にそこに文学を含めておきますが、後にこの文学こそがイスラエル問題と深く関係してくることとなりますがそれは後述します)
つまり、人間的営みにとって、政治と同じくらいこの『非政治』空間が重要であると私は考えます。
ただし、特に注意しておきたいのは、「非政治」は「反政治」ではないということです。
政治性は重要ではないという「反政治」的振る舞いが幼稚であることは言うまでもありません。しかし、政治も重要であるが、同時に「非政治」もまた重要であるという態度を、非難する政治性を私はまったく信じません。
そんな前提に立って改めて「政治性」について考えると、奇妙なことに気付きます。
「政治的」に振る舞うことは、それは実に不思議な全能感を感じさせてくれます。正義と不正義を峻別することは、人間にとって奇妙な快楽を生むようです。旧来、このような行いは、市民レベルではなかなか味わう局面がありませんでした。
しかし、身体性が極めて拡張した現代、一般市民レベルでも容易に政治的に振る舞えることが可能になりました。個があらゆるプロセスを無視して、全にアクセスできるという感覚を、現在、わたし達は、望みさえすればすぐに手を入れることができます。
しかし、それは、残念ながらフィクションに過ぎません。誰かが用意した、おそろしくよくできたデジタルインフラに依って成立しているに過ぎず、様々なアルゴリズムを駆使し、わたし達の快楽が操作されているに過ぎないのでしょう。
そんな仮想的な全能感に浸ることもたまにはいいのかもしれませんが、私は今、むしろ、市民生活における非政治的空間、つまり文学や映画を、政治性と同じくらい重要視したいと考えています。
 
そうした文学的なもの、映画的なもの、つまり政治と非政治を同時に併せ持つ人間的営みの中の『非政治』性を携えて、私はベルリンへ行くつもりでした。
では、一方の、同時に併せ持つはずの私の政治性はどのようなものか、ここまでくれば、それについて語らねば、片手落ちになるでしょう。
 
私は、(元来、無辜の市民などいないという立場ながら、仮に無辜の市民がいるとして)あらゆる紛争、特に現在のイスラエルが行っている行為、無辜の市民を国家的暴力装置で蹂躙する行為はあらゆる意味において悪であると考え、かつ強く反対する立場を採ります。
そして、停戦という言葉すらもはやふさわしくない、殺戮という行為を今すぐにやめるべきです。
ただし、これを可能にするには、一つ厄介な問題を考え、解決せねばならないと考えています。それは、「被害者意識」です。
 
今、イスラエルの正当性を強化しているもの、それは「被害者意識」です。
これは、ハマスによる攻撃の被害者という近接的な被害意識も含まれますが、それよりも大きな課題、全ヨーロッパ的課題が今もって横たわっていると考えます。
第二次大戦期、ヨーロッパはおろか全世界的に、わたし達は、全人類的罪悪を経験しました。そして、わたし達はそれを止められなかったトラウマを抱えることになりました。ナチスによるユダヤ人迫害及び虐殺、ホロコーストです。(この語の使用には繊細さが必要となりますが、ひとまずここではごく一般的な意味で使用することを続けます)
私が、人文学を通じて学んだことの一つは、ホロコーストはいかなる相対化も不可能であるということでした。しかし、そう結論づけられたはずの命題がこの期に及んで揺らぎそうになる感覚を覚えています。
「ユダヤ人」は絶対的被害者です。
この前提に立てば、イスラエルの正当性は常に維持・強化されるでしょう。
しかし……。
私はまだホロコーストが絶対的罪悪でないとは考えられません、が、同時にイスラエルのガザ侵攻に正当性があるとはまったく考えられないでいます。
この分裂的意識は、現代社会に生きるわたし達に重要な課題を突きつけていると感じるのですが、どうでしょうか。
 
ホロコーストを相対化せず、「被害者意識」を絶対化しない道はあるのか、私の今考えていることはそれです。
思えば、ウクライナ戦争が勃発する直前までは、実は非常に明瞭な世界観が通用していたのではないかというのが現在の私の見立てです。善と悪がはっきりと別れ、リベラルは正義を訴えていればよく、保守勢力は情緒に訴えていればよく、プーチンは悪玉で、ゼレンスキーは善玉で……。
しかし、イスラエル-パレスチナ戦争が始まると、そうした前提は覆りすべては混沌としました。被害者は加害者であり、加害者は被害者であり……。
これを乗り越えるためには、「被害者」という概念の再考が必要なのではないでしょうか。
(被害者を絶対視する人々が、イスラエルを非難するという光景が散見されます。このような振る舞いをする限り、パレスチナでの虐殺を止められるとは到底思えません。まずは「被害者意識」の再考をしながらでないとイスラエルを非難できないと私は考えます)
 
ここで私は再び、香月泰男の(実は立花隆の代筆である)文章を思い出します。
広島の被害者を『黒い屍体』、満州で私刑にあい、皮剥がれた加害者を『赤い屍体』とし、
「一九四五年をあの二つの屍体が語り尽くしている。(中略)戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。私にとっての一九四五年は、あの赤い屍体にあった。もし私があの屍体をかかえて、日本人の一人一人にそれを突きつけて歩くことができたなら、そして、一人としてそれに無関係ではないのだということを問いつめていくことができたなら、もう戦争なんて馬鹿げたことの起こりようもあるまいと思う」
そのようにして、香月泰男は「1945」という赤い屍体の画を描きました。
私が同意するのは、「被害」のみを訴えることでは、被害はなくならないということです。人を加害者にするメカニズム、そして加害者のたどる可能性を示さなければ。
 
少し話題は変わりますが、実は、ドイツ政府には微かな同情と、羨望が私にはあります。
ドイツはまさに、加害者のたどる可能性を体現してきた国でもあります。そして現在、「被害者意識」に加害者として悩まされ続けているように、私には見て取れます。
(といって、もちろんドイツ政府の採る立場が正しいとはまったく思いません)
仮にも、ドイツは戦後、ナチス政権の罪悪を総括し、「ユダヤ人」への償いを行い続けてきました。被害者に対する加害者の無限の贖罪を実行しようとしてきたように私には見えます。が、その被害者が、被害者の立場を堅持したまま、パレスチナ人を大量に虐殺する時、パレスチナ人への加害者であるユダヤ人国家イスラエルという被害者に対する加害者であるドイツに何ができるだろうかということも考えなければなりません。被害者=加害者=イスラエルを諭すことすら、反ユダヤ主義というレッテルが貼られかねない、戦後ドイツが歩んだ贖罪の歴史を無に帰しかねない、そのような桎梏が、ドイツ政府を縛っているとき、彼らにどのような立場をとることができるだろうか……。
一方、日本のことを思い返せば、ドイツと同じく戦争加害国であり、かつ敗戦国であるにも関わらず、ドイツのようには、アジアの国々に無限の贖罪を実行しようという意思は感じられません。
それどころか、日本の真ん中に存在するヴォイド(虚無)を、おのれの心の中にも同じく抱え、敗北を抱きしめて(ジョン・ダワー)、倫理を置き、ひたすら経済(吉田ドクトリン)を追及してきました。そのような国民に、ドイツの有り様をあしざまに言えるかどうか、私は迷います。
(移民政策においても、メルケルと安倍など比べるべくもないと考えています)
 
さて、先に触れた「文学」についてどうしてもふれなければなりません。
先ほど『非政治』的空間に「文学」が含まれていると書きましたが、それは残念ながら、現在括弧付きであると言わざるを得ません。
文学、また、それを映画に置き換えてもかまいませんが、戦前までは、より正確を期せば、ホロコーストを経験しない社会までは、いまわたし達が経験しているような、全てを政治化しようとする抑圧から逃れる作用として機能していた面があると思います。
しかしながら、ホロコースト以降、事態は一変しました。
『文学が全て政治化してしまった』というような、安易な変化では決して収まらない形で一変したのです。
 
テオドール・アドルノは『文化批判と社会』の中で、こう書きます。
「非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化はかつては精神の進歩を自分の一要素として前提としていたが、いまそれは精神を完全に飲み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己の元にとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない」
人間の愚かさが極限を貫いてしまった以上、文学、詩ですら、もはや絶対的物象化し、消費し尽くされるためだけにしか存在し得ない、私の理解ではこんなところでしょうか。
しかし、それでも、絶対的物象化に抗い、詩を書こうとした詩人がいました。
パウル・ツェランです。彼はルーマニア(現ウクライナ)のユダヤ教家庭に生まれました。
彼の両親は、ナチスドイツに捕らえられ、父は病死、母は射殺され、自身も収容所で強制労働を課せられます。
戦後、解放された後、苦悩しながらも詩を書き、それは「アウシュビッツ以降、唯一可能な詩」のようでした。あたかもアドルノが言うところの、アウシュビッツ以降の絶対的物象化に抗うように。しかし、パウル・ツェランは、1970年、「迫る光」という詩群で、
「あらかじめはたらきかけることをやめよ
さきぶれを送ることをやめよ、
そのなかにただくるみこまれて立っていよ――
空無に根こそぎにされて、
すべての
祈りからもときはなたれて、
さきだって書かれていくさだめの文字のままに
しなやかに、
追いこすこともかなわぬまま、
ぼくはあなたを抱きとめる、
すべての
安息のかわりに。」
という詩を書いた後、セーヌ川に投身自殺します……。
 
文学は(もしくは映画は)、敵と味方とに我々を分断してしまう抑圧に抗うことができるでしょうか。
わかりません。アドルノの言う「アウシュビッツ以降」も、パウル・ツェランの詩も、現在、様々な状況に照らし合わせると、悲しいことに、おそらく、変容していると感じざるを得ません。
ただし、少なくとも、私は文学や映画から常に「あなたは人間です」と励まされ続けてきました。
文学とは、常に、私の(あなたの)正しさをぶっ壊してくれるものです。正しさの追求は常に成されるべきですが、誤解を恐れずに言えば、ひとたび構築した正しさは、刹那に正しくなくなるものであり、そして、文学はそれを絶えず意識させるものとして機能します。それだけでなく、文学は、私の善や悪、正しさや不正の分別を常に揺るがします。時に、死生観すら超越させてしまう場合もあるかもしれません。
人間は、崇高で、美しく、愚かで、醜い、かつ憎むべき存在でありながら、どうしようもなく愛さずにいられない存在です。もう一度言いますが、文学や映画は常に「あなたはそのような存在」だと励まします。
 
私が、ベルリンへ行った理由の中には、もちろん、権威に認められたという嬉しさがあったということを隠すつもりはありません。しかし、ある種の緊張状態にある場所で「非政治」性がどのように機能するか、それを確かめたかったというところが本音なのです。

さあ、出発だ。

さて、ずいぶんと、横道に逸れてしまいました。
ケバブでお腹が満たされ、ドイツビールで微かに酔っぱらった我々一行は、ひとまず明日に向けて英気を養い、充分に休息をとりました。
いよいよ、次の日は、映画『箱男』のワールドプレミアです。
張り切って参りましょう。

(いながききよたか)


よろしければ、サポート頂けますと幸いです。