かつての空虚な主人公

 いつだって世界の主人公になりたかった。
 私が優雅に、美しく歩いているだけで道行く人々は、私に注目するような存在になりたくて、いつも凛々しく、堂々と歩いていた。
 幼いころ、眠る前には、必ずベッドの中で自分が主人公の演劇をした。

 常に誰かからの視線を妄想しながら、生活をしていた。私というキャラクターが、世界の主人公だったらいいのに。そんな願いをずっと抱えて、一挙手一投足全てを「演じること」に費やした。

 でも、満たされるわけがなかったのだ。なぜならば、そんなのは所詮妄想に過ぎないし、職場を除き、分かりやすく称賛を送る人間などいるわけがないのだから。
 何よりも、「演技をする自分を認めてくれる自分」もいなかった。

 そもそも、これを始めた理由も、「自分なんていらない」と認識したから。
 そんな理由で始めたものに対して、承認してくれる自分などは、当然だがいない。真に承認されたがる自分を、消したくて消したくて仕方がなくて、自分ではない誰かを演じていた。

 自分のことが、心底嫌いだったから、「いなくなれ」と考えた。自分なんてものは、邪魔な存在だった。強烈な感情を意識に主張して、行動を阻害してくる。
 私はもっと理性的に、「普通」になりたくて仕方がないのに、感情というものは行く手を阻むものでしかない。こんなものがあるから、私は前に進めない。
 そこで私が至る手段は、感情鈍麻と、離人だった。

 感情など見ないふりをすればいい。感情を叫び続ける自分と、視界を捉えている自分を、分けてしまえば、行動を感情に邪魔されない。
 そんな生活を、1年半続けた。

 最初は、こんなに楽なことがあるんだと思った。全てがどうでもいいものだと割り切れるのだ。
 感情を感じないので、どうでもいい以外の感想は抱かないし、感情という所謂本当の自分を閉じ込めているので、何が起ころうとも傷ついたなどとは思わない。なぜならその刺激を受けたのは、私であり、私ではないから。

 ずっと待ち望んでいた極楽なはずの状況にもかかわらず、なぜか苦しいことには変わりはない。
 当時つけていた日記という名の思考記録簿には、苦しいのに感情を感じ取れないから世界は闇の中だ、と書かれていた。

 現在通っている就労支援a型で、職員としての業務を始めてから、顕在意識というのは著しい成長を遂げた。
 「理想の大人」という姿を、約3か月で完成させた。そんな中でも、離人という状況は続いていたが。

 傷つき、膝を抱えて泣く自分を、顕在意識の自分が眺めている感覚。それを感じると、自分では対処しきれないことになると考えているので、ただただ穏やかな顔で眺め、見つめるしかできなかった。
 もうその時には、涙も出なくなっていたため、疲労は音を立てずに蓄積されていく。


 そして今、二度のインナーチャイルドセラピーを受けた後、離人状態はなくなり、視界はしっかりと自分の見ている世界だし、「自分は誰なんだろう」などもそもそも考えない。空気と自分が、きちんと一体化している。

 現状として、演じることは少なくなったという程度だが、徐々に腑に落ちてきたことがある。
 私という人間が、私にとっての主人公なのだとはっきりとはまだ言えない。しかし、誰かにとっての主人公であることが、私の存在価値ではない、と思う。
 誰かに承認をもらわなければ、存在価値が損なわれるだろうか。常に誰かの中に存在していないと、私の価値は無くなるのだろうか。
 そんなことあるわけない。

 演じたいならば、演じればいい。
 演じることが「楽しい」と思えるのならば、やればいい。誰かからの承認のために演じるということが、楽しいのであれば、やってしまえばいい。
 誰かのために何かをすることが、ダメなことではない。でも、それが嫌だと思うならば、演じることなど、やめてしまえばいい。

 今は、「どんな自分でも太鼓判を押してくれる自分」がいるから、演じることが誰かのためではなくなり、自分のためのものにしてくれている。

 誰かの中にいなくたっていい。誰かにとっての主人公でなくても、私には価値がある。
 その価値が失われることなど、私が私である限り、訪れることのない話だ。
 そしてその価値は、私が知っていればそれで十分なのだ。他者からの評価などは、おまけでいい。貰えるならば万々歳、程度だ。
 自分を大切にする気持ちを、しっかりと胸に抱えて生きていきたい。

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