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水曜日のナルミ/スプリングコートとタルタルソース

ナルミという名前は漢字で書くと成実、となる。
ナルミはその名前の通り大した成果を上げたのかと言われると「大器晩成型ですね」とわざとふざけて後ろ頭をポリポリと掻いてしまうような人間だった。
親も大した事を考えてこの名前をつけたもんだ、と思う。同時にどんなことを達成して欲しかったのだろう。今更聞くのも恥ずかしく疎くて、なあなあにして過ごしている。

水曜日の電車は若干疲れの色が濃くなる。
今朝はつり革にもたれた腕に顔を押し込んで器用に立って眠る人を見つけて、栄養ドリンクのCMみたいだ、とぼんやり考えていた。
でもその人は疲れを身体から垂れ流しながらも綺麗なキャメル色のスプリングコートを着ていて、いいなあ、とナルミはため息をつく。

ナルミは、生まれてこの方スプリングコートを買ったことがない。
生まれた場所が北の方だったこともあって、春はギリギリまで冬のコートで粘ればあっという間にGWに突入する。そこでようやっと安心してダウンコートを仕舞うことができるぐらいで、「春服」という概念もあまり頭の中に存在しない。
『春の主役級コート!!』なんていうファッション雑誌を見てもなんとなくピンとくる物に出逢えず、仕事帰りにコートを探しに何度もデパートに足を運んだりファッションビルを上から下まで見ても何にも出逢えないのだ。

流石に毎日、存在しない理想のコートを探していると辟易してくる。ナルミは疲れの勢いで思わず一言口にしてしまった。

「わたし、春に嫌われてる」

ナルミの唐突な一言に晩ご飯終わりのお茶を淹れようとしたパートナーは驚いた顔をしたあとでなるほどいつもの論理の飛躍ってやつだな、と理解してなにかあった?と尋ねる。

「今日もコートがなかった!っていうかもはやコートが店頭から尽きてきて夏服に近づいてきてる!!つまり今年も私はスプリングコートが買えなかった!!」

かなしい!と、素直に感情を声に出せるのはナルミの美徳だ。
そう思っているパートナーはお茶の支度をしながらナルミに向き合う。

「それは多分、世界がナルミに気付いていないってだけだよ」
「……?」
「今季もナルミが気に入るようなコートを売ることが出来なかったなんて、ファッション業界の目はなんて節穴なんだ!ナルミが気に入る天下一品のコートを作ることすら出来ないなんてかわいそうに!……と、思うことにするようにしなさい」
「はあ」
「あとは逆も然りかもね」

まだ思っているよりも色んなお店見れてなかったのかもよ?来年はもっと勇気出して定番の店以外も行ってみたら?というパートナーの言葉にナルミはそりゃそうですと納得して頷くほかなかった。確かに打算で、いつもと同じ店を回っているところはあった。もうちょっと価格帯を上げた店を探してみるだとか、チャレンジしたことないジャンルに踏み込んでみてもよかったのかもしれない。

一生で一着目のスプリングコートなのだ。まだまだ思案が足りてなかったと反省したところを察したようにパートナーが声を掛ける。

「お茶はいったよ、飲む?」
「飲む」

癖の少ないさっぱりとした紅茶は食後にちょうど良い。
パートナーはナルミの好みをしっかりと理解していた。
ナルミはナルミで、コートがないときのほの寒い朝をどうしようか、と思いながら対策を思案していた。

その対策の結果は、コートの代わりの黒いジャケットだった。
冬前に買った少しオーバーサイズ気味のジャケットは大変気に入っていて、寒い朝に暖を取るのにちょうどいい。
今日も結局薄い長袖に合わせてジャケットを羽織ってそれらしい服装で会社に向かっている途中でメッセージアプリの通知が届く。
送り主はパートナーからだった。

【ごめん、急に夕方打ち合わせ入ることになって帰るの遅くなりそう。ナルは?】
【私はなにもなければ定時~】
【じゃあご飯の準備ちょっとだけお願いしていい?】

タルタルソースを作っておいて欲しいんだけど、という依頼にナルミはおお、と少し身を引く。作ってみたことがあるといえばあるが、自己流で作られる自信はない代物の一つだなと思わず息を呑む。

【今日チキン南蛮だよ】
【やった!!】

チキン南蛮ときたらタルタルソースは必須だ。私にお任せあれとレシピを調べ始めたナルミは、すっかり倦怠感のまみれた朝の電車から気持ちは逃れて10時間後の夕ご飯に飛んでいた。

予定通り仕事を終わらせたナルミは、準備は万端よといわんがばかりに家に帰る。
頭にたたき込んだレシピに書いてある材料は卵、タマネギ、マヨネーズ、酢に砂糖、塩コショウ。
「(絶対家にある奴じゃん)」
勝ち確、と思わず鼻の穴が広がりそうになるがマスクで防護されたおかげでどや顔を披露しなくて済んだナルミは行きと同じ路線にウキウキとした気分で揺られる。

まあまあ、おまかせあれーーと家に帰って冷蔵庫を開けたナルミは数秒後、膝から崩れ落ちることになる。
タマネギがない。タマネギがないことなんてあるのか、と思ったがそういえば昨日はたっぷりとタマネギを使ったオニオングラタンスープだった。
「(ないならないっていってよお)」
不在のパートナーに愚痴りながらこれから買い物に行き直すかと考えたところでふと冷蔵庫の中身と目が合う。

「(……タルタルソースって、タマネギからっきょうを使うレシピがほとんどだったよなあ……じゃあ、香味野菜だったらなんでもいけるんじゃない?)」

そう思ったナルミは目の前のセロリに手を伸ばす。
本日のソースは実験だ。そう決意して細かくセロリをみじん切りにすることにした。同時にゆで卵を準備する。今日は12分ぐらいゆでた固ゆでにしておく。マヨネーズは大さじ8(あまりの量に思わず目を瞑りたくなる)お酢は大さじ1、砂糖は小さじ1、塩はひとつまみ、コショウは気分。
みじん切りにしたセロリとゆで卵と調味料を合わせて混ぜれば、完成。

まだ帰ってくるには時間がありそうだったからついでに冷蔵庫に残っていたこんにゃくで少し辛めのきんぴらを作ったところで玄関から音がする。

「ごめん遅くなった~」
「おかえりー」
「わ、いい匂いする」
「こんにゃくのきんぴらも作ってさあ」
「だからかあ、天才~」

着替えを終えたパートナーはナルミの準備を十分に褒めてくれたが憎たらしげにタマネギがなかったことを告げられると慌てて頭を下げる。

「でも私は天才だから知恵を使って乗り切ったのさ!ほら食べてみこのタルタルソース」
「……え、うま。何使ったの?」
「セロリ!」
「セロリか!!」

確かにセロリなら香りもあって美味しいしシャキシャキだしぴったり、タマネギみたいに辛くないからちょうど良いねと褒めてくれたパートナーに対してナルミは思いっきり尻尾を振っている。
今すぐ支度するね、とチキン南蛮の支度をし始めたパートナーがお風呂に入っていいよと言い添える。

きっとお風呂から上がる頃にはチキン南蛮は出来ているだろうし、相変わらず晩ご飯は美味しいものになっているだろう。
ナルミがスプリングコートがないと騒いでいてもジャケット一枚でこの春を乗り切れそうなのは、多分タマネギがなくてセロリで作ったタルタルソースが美味しかったのに似ている。

この世界には理想のものがなくても、ちょうどいい身近なものが存在している。
それが意外と、ぴたりと自分にはまる瞬間だってある。
明日も着るから、寝る前にジャケットにブラシを掛けよう、と決めてナルミはお風呂に入る支度を始めた。

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