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(20)ポスト・ユーゴ映画の上映

[2015/8/14]

 今年も解体後ユーゴ地域の映画上映をおこなった(『シネマ・ポスト・ユーゴ2015』)。今回は初めてコソヴォの映画を上映することができ、また各映画ごとに会場を替えて1本ずつ上映するという試みをしてみた。

マケドニアの腐敗

 今回初めての会場である城西国際大学(紀尾井町キャンパス)では、城西大学中欧研究所副所長でバルカン史がご専門の柴宜弘教授が司会を務めた。上映作品はマケドニアを代表するミルチョ・マンチェフスキー監督(1959〜)の『影たちShadows/Senki』(2007)。

舞台はマケドニアの首都スコピエ。美しい妻と可愛い息子を持ち、すべてにおいて恵まれた生活を送り、「ラッキー」という愛称で呼ばれている若い医師が交通事故に遭い、九死に一生を得た後に超自然的体験をするというストーリーである。
 彼が夜帰宅すると見たこともない老女がいて理解できない言葉を喋っている。老女を部屋から追い出し窓から下を見ると、彼女は狼と一緒にいて窓際の自分を見上げている。アパートの廊下では乳児を抱えた初老の男と出会うが、その男の靴からは血が流れ出ている。
 ラッキーは老女の話していた言葉を書きとめて大学の言語学者を訪ねる。学者は留守だったが、若く美しい妻メンカがその言葉は現在ギリシャ領となっているエーゲ海沿岸地域で使われているマケドニア語で「自分に属さぬものを返せ」という意味だと教えてくれる。ところが彼には全く心当たりがないのだ。
 ラッキーの母は大学医学部の重鎮で、患者や取引先からの賄賂の金を躊躇することなく受け取り、その一部を息子に渡す。彼は一瞬たじろぎながらそれをポケットに入れてしまう。母の事務室で1973年とメモのある段ボール箱に入った人骨を見つけるが、それこそが老女や初老の男たちに返さなければならないものであるということが次第に明らかになってくる。
 「マケドニア」は、歴史的にギリシャもブルガリアも自らの領土だと主張してきた。また1970年代に、マケドニア人と自認する人々がギリシャ国内で迫害され、現在のギリシャとマケドニア共和国の間の国境を越えてマケドニア側に逃れて来た。その時にマケドニア側の村では避難民を助けなかったので彼らは行く当てなく集団自殺をした。その死体は村の墓地にも葬られる事なく、墓地の外側に埋められた。その人骨を当時医学部の若手研究者であったラッキーの母が論文を書くために利用し、そのまま段ボール箱に収めて持ち続けていたのである。
 自分の利益のみを追求した母の行動はおよそ人間の倫理的規範から逸脱したもので、浮かばれない死者たちが自分たちの骨を取り戻しに来たのである。ラッキーが次第にメンカに惹かれて後をつけるという、ヒッチコックばりの場面も映画の中にあるが、この魅惑的女性も実はこの世の人間ではなかったことがわかる。
 2年前の『母たち』(2010)の上映ではスコピエから上映後にスカイプで討論に参加してくれたマンチェフスキー監督であるが(本コラム(10)を参照)、今回はニューヨークで映画製作に入ってしまったので、事前に日本の観客のために音声メッセージを送ってきた。それによれば、監督は怖い映画を作りたかった、それも知的なものより五臓六腑に響く本能的な恐怖をめざしたという。舞台は世界中どこでもよかったが、都市を背景にしたくてスコピエを選んだ。映画のテーマは個人の責任、負の遺産、倫理的問題に関わるもので、たまたま現代のマケドニアが舞台になったので、できるだけ状況やライフスタイル、場所の感覚を正確に映し出すことに務めたという。
 この映画は腐敗について描いた映画で、しかも権力の中枢にいる人たちの物語である。腐敗に関しては子供の頃から見慣れたものであるが、最近特にひどくなってきていると感じているそうだ。それに加えて社会のタブーである性と死の問題にも触れたかったという。そしてタブーとは何か、我々はどのように行動するべきなのかといった問題提起をすることにより、討論の契機にしたいという抱負を述べた。
 映画の解説をした東京大学講師でバルカン史専門の山崎信一氏は、マンチェフスキーのキャリアとともにギリシャとマケドニアの関係についても説明した。2年前『母たち』の上映の際、京都大学に研究員として滞在中で映画の解説をした映画学者アンドリヤナ・ツヴェトコヴィチ氏は、昨年マケドニア映画『バルカンカン』の上映の時にはスコピエから映画製作者のロバート・ナスコフ氏とスカイプで参加したが(本コラム(14)を参照)、昨秋マケドニア駐日大使として赴任したので、本年も上映に参加してくれた。
 大使はまず映画の美しい風景を強調した。ラッキーの両親の別荘がある、山に囲まれたオフリッド湖のほとりには古い修道院もあり、その息を飲むほど美しい景観はマンチェフスキーの処女長編作『ビフォア・ザ・レイン』(1994)でも使われた有名な観光地である。しかしスコピエでは意識的に観光地的な場所を避け、どこにでもある都市のイメージを狙っていると解説した。ラッキーの母は権力と自分の利益のためなら何でもするという猛母で、これは世界中普遍的な母親像ではないかという意見だが、私がすぐに連想したのは本コラム(11)で紹介したルーマニアの猛母を描き日本でも公開された『私の、息子』(原題『子供の姿勢』)である。そしてマケドニア社会にはびこる腐敗、そして主人公が直面する道徳的ジレンマについてこの作品は鋭く提起していると大使は評価した。
 観客から、本作の最後に使われていた歌は何かという質問があったが、これには大使をはじめ誰一人わからなかった。しかし大使が本監督は音楽に力を入れることで知られていると指摘し、私も監督がミュージックビデオ製作でキャリアがあり賞もとり有名であることを紹介した。また山崎さんが乳児を抱えた初老の男を演じたのはトルコ系俳優サラティン・ビラルであることを解説したが、その他の役のキャスティングについて聞きたいという質問があった。大使は、主役のラッキーを演じたボルチェ・ナチェフはアル・パシーノ似の新人で、新鮮な味を出しているが、その他はベテラン俳優で、母親を演じたサビナ・アイルラもトルコ系俳優だと言及した。
 私は2006年、ニューヨークからマケドニア・アルバニアを訪問したマルチメデイア舞台公演興行に関わっていたので、その企画のデイレクターの中馬芳子さんとともに旧知のマンチェフスキー監督を表敬訪問した。ちょうど監督はスコピエ郊外のミルク工場を使って病院の場面を撮影中であった。イタリア人の撮影監督ファビオ・チアンケッティ以外は、スタッフと出演者をマケドニア人で占めるというのはマンチェフスキー監督にとって初めての体験であった。床にはケーブルが何本もひかれ、照明やカメラ位置を決めるのに時間がかかり、緊迫した空気が流れていた。1時間以上私たち二人は待たされていたが突然監督に呼ばれて「廊下を歩くエキストラをやってほしい」と頼まれた。本作がニューヨークで公開された時、勿論この場面を楽しみにしていたのだが、残念ながら私たちの場面はカットされていて、日本人女性二人がスコピエの病院の廊下を歩く姿は観ることはできなかった。

コソヴォの傷跡

 本コラム(19)にあるように、昨年(2014)ニューヨークのトライベッカ映画祭でコソヴォ映画センターのデイレクター、アルベン・ジャルク氏と会って以来、コソヴォ映画上映の企画を進めてきて、今回『三つの窓と首吊り(Three Windows and A Hanging/Tri dritare dhe nje varje)』(2014)を東京大学文学部現代文芸論研究室で上映することができた。

 沼野充義東京大学教授の挨拶のあとルディナ・ブコシ臨時コソヴォ大使は、この映画は10年ぐらい前の話で、現在のコソヴォには本作で描かれていることばかりでなく様々な側面があることを強調した。映画の解説をしたロシア・バルカンの前衛芸術を専門とする亀田真澄東京大学准教授は、本作のテーマになっている紛争を経て2008年セルビアから独立をしたコソヴォの歴史と国際映画祭の数々で受賞した本作の評判の概説をした。
 本作は、大きな木の下で村の3人の老人たちがたわいない話をするシーンからユーモアも交えながら始まり、最後にはまた同じ場面で終わるが、その間に起こった出来事で村は深刻な問題にさらされる。老人たちの白い丸帽子やゆったりした衣服から彼らはイスラム教徒のアルバニア系住民である事が推測される。村にスイスからの援助で牛が寄贈されたり、EUからの援助で水道管が引かれていることが紹介され、古い社会にも近代化が進んでいることが観る者に判ってくる。しかしスイスの代表のスピーチを通訳する若い女性に対して「女だから信用できない」と文句を言う初老の男がいる。この場面で観客からどっと笑いが起きた。破裂した水道管を直していた技師は、女性蔑視の意見に同調できず当惑している。この村の男たちの女性観が必ずしも一様ではないことが示されている。
 また、中年女性ジャーナリストの英語でのインタビューに対し(後ろ姿のみのショットの)女性が重い口をやっとのことで開き、通訳を介して質問に答えている場面となる。紛争中この村に来たセルビア兵に自分を含め4名の女性が性的暴行を受けたことが、彼女の短い答えから判ってくる。
 ほどなく村の男たちが集う酒場で、海外の新聞で報道された上記の事件がこの村の地方の新聞でも後を追って報道されたことが話され、村の恥が外の世界にさらされたことに長老たちが憤慨して村長を呼び出す。村長も長老たちも自分たちの村から暴行被害者が出た事を認めようとしないが、直接な被害者でない男たちが自分たちの名誉のために事実を認めない偏狭な村の男社会の実態が明らかになってくる。そこに居合わせた前述の技師は黙って酒を飲み続けるが、その険しい表情から何かありそうなことが推測される。
 このように本作では沈黙が大きな位置を占めている。台詞よりも黙っている男女や親子の顔の表情が多くを語る。地面や屋根に打ち付ける雨の音、家の外に響く虫や鳥の鳴き声がその沈黙を埋める。時にはカチカチという時計の振り子の音だけが沈黙する二人の間に存在する。言葉にならない感情がこのように表現されるのだ。使用されている音楽は、バーのカセットテープから流れる一昔前の流行歌のみである。
 重要なのは、登場人物がお互いに交わす視線である。それこそが映画でしか表現し得ない技法であるが、本作は言葉によらず映像でみせる技法に特に長けているといえる。村長も実は自分の妻が暴行を受けていたのだが、それをひたかくしに隠している。夫婦がそのことに触れる最初の場面は、ひざまずいて自宅のトイレ掃除をしている妻が黙って便器をゴシゴシ洗うシーンで、彼女を救うどころか自分のみが身を隠すことしかしなかった夫に対する彼女の怒りの感情がひしひしと伝わってくる。また村長が、娘に求愛する若者を追い返そうとする場面では、まず村長が煙草を吸おうとして若者に火をつけさせる。煙草に火をつける場面が時をおいて繰りかえされることで、この二人の上下関係が沈黙の中で表現される。最初は村長に圧倒されておどおどしていた若者が、次の場面では逆に村長に挑戦的になり、村長がその気迫に一瞬たじろぐのだ。それを途中から煙草の下からのカメラ位置で捕らえる。
 バーの壁にかかる物悲しい白鳥の絵が何度かクローズアップで見せられるのも、寂しい情感を表す。妻が兵士による暴行を受けたと知らされる夫の心情も通り一遍のものではない。外国のジャーナリストからインタビューを受けていたのは村の小学校の教師で、妻の悲劇は夫がセルビア軍に拘束されて留守中の出来事であった。その後夫は戻らず、妻は10歳ぐらいの息子と夫の帰還を待ちわびている。ある日数年ぶりで戻った夫は、妻の告白に何も言葉を発することができない。妻の告白も苦しみをしぼり出すような短い言葉によるが、このような体験を夫婦の間で語り合うことは難しいであろう。妻が暴行されたことだけでも夫として堪えられない心境になるはずだが、それを世間に知られるとコミュニテイの恥として夫婦とも排斥されてしまう偏狭な社会では、さらに夫は社会的立場をも考慮しなければならない。
 技師の妻は暴行された事実を夫に話していない。村の暴行事件が明るみに出た時にも夫に告白できず、首吊り自殺する。それが本作の題名の「首吊り」のことで、題名の残りの「3つの窓」とは、世間に心を開いて告白し、生きていくことを選択した残りの3人の女性のことだと私は考えた。
 上映後コソヴォからスカイプで討論に参加していただいたイサ・チョシャ監督(1949〜)は旧ユーゴ時代から活躍するベテランで、製作者シュクンビン・イストレフィ=イストラ(1969〜)は英語も巧く監督の通訳も務めた。
 私はまず、雨の音や鳥の声が効果的に使われ、バックに映画音楽がないことについて質問をした。チョシャ監督は、当初音楽を入れてみたがしっくりしなかったのでやめたとの答えだった。ここぞとばかりセンチメンタルな音楽が画面に侵入して来る映画があまりにも多いので、本作には非常に好感が持てる。
 次に前述の山崎さんが、セルビアの首都ベオグラードで最近行われた本作の上映の反応を聞いた。イストラ氏によれば、映画が終わると会場はしーんと静まりかえり、10秒ほど後に大拍手が沸いたそうだ。そして本作で描かれる父権社会はコソヴォだけでなくセルビア、しいてはバルカン全体に見出せるもので、セルビアでも共感を得たのであろうという。これは日本でも、また世界各地の辺境な社会で共通に見出せる問題と思われる。
 さらにイストラ氏は、外国人ジャーナリストの役を演じたミリヤナ・カラノヴィチに言及した。旧ユーゴ、そしてセルビアを代表する女優の一人で、日本でも公開されたエミール・クストリツア監督の『パパは出張中』『アンダーグラウンド』などに出演している。『サラエボの花』でセルビア兵に収容所で強姦されて身ごもったボスニア女性を演じていたが、そのときセルビア人でありながらセルビア人を糾弾するような役をやるとは何事だと彼女は脅迫状を受け取ったと、どこかで読んだことがある。今回はセルビア兵による集団レイプの被害者のコソヴォの女性をインタビューする海外(多分西欧のという設定のようであった)のジャーナリストの役である。これは明らかにカラノヴィチの今までの役柄を意識したキャストである。
 沼野教授は、この映画のストーリーにフィクションとしての要素がどのくらいあるのか、例えば女性の置かれた地位を誇張しているのではないかという質問をしたが、監督は実際にこのような事件がたくさん起こり、誇張はないという答えだった。また夫婦が困難を乗り越えて和解するという場面が描かれない、夫も妻もそれぞれ悩んだままという終わり方についての亀田さんの質問について、監督はこのような夫婦の状況で、簡単な解決はないからだと答えた。ブコシ臨時大使からは、コソヴォ紛争中の性犯罪を語るというタブーとされていた題材をこの映画であえて描いた作家たちのこれからについて質問がでた。監督や製作者は、このタブーを破るのに15年かかったのを見てもわかるように、悲劇を芸術作品として昇華させるのには時間がかかると述べた。
 この日は観客にアンケートを書いていただいた。観客の中にはNGOのボランティアでコソヴォに滞在していたという人もいたが、重いテーマを美しい映像で見せている、現在の日本の状況にも結びつけることができる普遍的テーマである、戦争がもたらす傷の深さが女性だけでなく男性の視点からも描かれていたのがよかった、村を去る村長の娘の姿に若い世代への希望を見た、……などという感想が複数あった。

スロヴェニアの高校

筑波大学東京キャンパスではスロヴェニア映画『クラスの敵(Class Enemy/Razredni sovraznik)』(2013)を上映した。

ある高校で産休代用教員として赴任した男性のドイツ語教師ズーパンが厳しく愛想がなく生徒ともうちとけないので、生徒たちの不満の対象となるという内容だ。北里大学でドイツ語を教える三田順氏がスロヴェニアの教育制度と本作の解説をした。
 第二次世界大戦中、欧州の多くの地域を軍事占領したドイツに対する各国の感情にはいまだに複雑なものがある。スロヴェニアもナチスの支配下にあり、抵抗運動が組織された。ズーパンは授業で作家のトーマス・マンをとりあげるが、論理的理性的にものを考えていくドイツ的思考を文明社会の人間の教養として若い世代に伝えていこうとする教師と、自分の責任を問う以前に何でも他人のせいにして軽薄でチャラチャラした今の若者世代との対比が興味深い。
 私が台詞の意味するところのすべてを理解できたとはとても思えないのだが、スロヴェニアの首都リュブリャナの大学で3回の短い滞在しかしていない私でも判ることもあった。例えばズーパンが「何かを学ぶとはその内容を知らないということを、何かを欲するということはそれが不可能だということを、それぞれ意味する」というドイツ語の格言を引用し、その作者は誰かと問う。生徒は誰も答えられず「マン?」「ゲーテ?」「ニーチェ?」と推測するのだが、正解はイヴァン・チャンカー(1876−1918)であった。チャンカーはスロヴェニアの国民的作家で、私の学生たちもよく知っていて話題にしていた。オーストリア=ハンガリー帝国の下にあったスロヴェニアでは知識人はドイツ語で著作を書いていたのだ。それはハンガリーの映画学者ベラ・バラージュやチェコの作家フランツ・カフカも同様であった。ドイツ語の欧州における文化的役割が、その帝国主義的背景とともにこの場面で感じられる。
 ある女生徒が自殺し、その直前彼女を辛辣に批判していたズーパンが直接の原因だと一部の生徒たちが騒ぎ出す。そして動揺する同級生たちに向かってズーパンは、「死者の問題とは本人のものというよりも、残されたものの問題だ」というマンの言葉を引用する。そうした理性的反応をズーパンは生徒たちのためによかれと思ってとっているのだが、生徒たちは血も涙もない奴だとズーパンに対する反発をますます深めていく。
 その中で点取り虫の男生徒がいて、彼だけが予定通り口頭試験を実施する事を主張する。ズーパンが出した問題は、「マンが息子の葬儀に出席しなかったことをどう思うか」。それに対し教材にないと言って点取り虫は答えられない。「自分の意見ぐらいあるだろう」と強要されてようやく点取り虫は「たぶん息子の事を恥ずかしく思っていたのではないか」と答える。するとズーパンは「あなたの両親はあなたの事を恥ずかしいと思うのか」という質問をする。これにも点取り虫は答えられない。この場面は、画一的な考え方しかできない教育についての批判で、私は日本の教育の現状を連想してしまった。
 ズーパンはナチスとかヒットラーと生徒たちに呼ばれる。校長はズーパンを性急に犯人扱いする生徒たちをたしなめる一方で、事なかれ主義でもある。同僚の教師たちの反応も利己的であったり理性的であったりそれぞれである。夜行われる父兄会の様子も、自分の子供の責任逃れのみを考える親のエゴがむき出しになる喜劇的様相を示す。
 最後にズーパンの疑いが晴れ、物事は単純ではないということを生徒たちが学んだことが望まれるのだが、自分がナチスと呼ばれていることを知っていた教師が生徒たちにナチスの定義とは何かを質問する場面は圧巻で、このように知的で哲学的な作品は今の日本の若い監督には作れないだろうと私は思った。
 上映後のスカイプでの討論に登場した本作のロック・ビチェック(Rok Bicek)監督は1985年首都リュブリャナの南にあるノヴォ・メスト生まれ。短編5本を経て本作が長編第一作で、ヴェネツィア国際映画祭での国際批評家週間賞ほか国内外の賞を受賞して注目された。全編手持ちカメラで自由に流れるように展開する画面とともに、登場人物のクローズアップが多いので、各人の心理に親しみを持って入り込めるような印象を与えられる。  この日の司会をしたのは東京外国語大学などでスロヴェニア語や英語の講師をしているスロヴェニア人のイエリサヴァ・ドボウシェク=セスナ氏。本作は監督の級友が自殺した体験を基に監督自身が共同脚本も担当したこと、スロヴェニアでは自殺が多く社会問題になっていることを紹介した。セスナ氏はまず監督にプロの俳優を素人の高校生に混じらせる演出についての質問をした。監督は国中の高校をまわって各生徒役にぴったりの若者を選んだ。ズーパン役のイゴール・サンボールはベテラン俳優で、撮影中は生徒と一緒の時間を過ごさせないようにして、彼らの間にリアルな距離感を作り出した。
 中国系生徒が出てくるのは興味深い。彼の両親は中華料理店を経営しているという設定で、彼も両親の仕事を手伝わなければ行けないので、自殺した同級生の葬式にも出られない。生活に追われ苦労する移民第一世代の両親の下、彼のスロヴェニア語は完璧でスロヴェニアの若者社会にもそれなりになじんでいる。監督によれば、「スロヴェニア人は自分を殺さない時にはお互いに殺し合っているじゃないか」という彼の台詞で、スロヴェニア社会を観察する第三者の視点を入れたという。
 作品解説をした三田氏は、ドイツのイメージについての質問を監督にし、監督は戦時中の対独パルチザン派とドイツに協力したと言われている人たちについて、スロヴェニア独立以来、それぞれ再評価がされていることに言及した。監督によれば、第二次世界大戦直後には急性に対独派と決めつけられて処刑されてしまった人々もいて、スロヴェニア独立後は社会主義国時代には思想的に許されなかった方法での歴史を見直す動きが出ているという。
 スロヴェニア人観客から、社会主義時代を知る世代は映画の題名の「クラスの敵」に、当時よく使われた労働者階級の敵という意味での(クラスClassには「学級」のほかに「階級」という意味もある)「階級の敵」を連想するという指摘があり、監督は勿論世代間の違いを意識してこの題名をつけたと述べた。
 またセスナ氏のお父さんがノヴォ・メストの高校の校長をしていたとき、一家は高校の敷地内に住んでいたことがあった。本作ではその高校の建物が撮影に使われていたので、とても懐かしかったそうである。
(本稿を書くにあたり、山崎信一さんにお世話になった。)

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