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灰色の親になっていませんか

灰色の親になっていませんか

 「灰色の親」なんて、なんとも恐ろしげな言い方だけれど、これは世界的な児童文学「モモ」に出てくる、近代化と効率化の権化である「灰色の男」になぞらえている。


 数年前がピークだったか、自宅での家事や子育てなどお金を生まない仕事の労働量を可視化したり、賃金を算出したりすることが流行っていたように記憶している。
 私自身も熱心にそういう記事を読んで参考にしていたけれど、最近思うのは、子育ての場合は労働というより表現に近いのではないか。デスクワークよりも、俳優・ダンサーのような。
 間合いだとか、呼吸が大切な時がある。
 目に見える物を生産しない時間がほとんどだから、けして時給では算出できなくて、けれども時々訪れる一瞬が、その他のどれほどの時間を積み重ねても代えがたい価値のある成果を産んだりする。


 労働的に子育てをしていると、自然な流れで効率化を図るようになる。そうすると、本質的に効率とは無縁な「子ども」という存在自体が疎ましくなったり、子育てが苦痛になったりする。遊びがやっと盛り上がってきたところでサッサと切り上げてどんどん次へ次へ行ってしまう親になってしまう。


 子どもの側からすると「きちんと育ててくれたけれど、楽しそうじゃなかった」「親の負担になっていなかっただろうか」「私は本当に必要とされていたのだろうか」という状態に陥るのではないだろうか。


 子育ては子どもの生活そのものなので、労働だと思わない方が気が楽だと思う。労働だと思うと、生活に楽しみを見出す余裕が無くなり、生活が楽しくなくなる。
 目の前の楽しみを噛み締められずサッサと次へ行ってしまう無粋な行いは、情緒に欠けているのだと思う。情緒に欠けているとは、文化的でないということ。人の内面を育てるには、文化的である必要がある。
 文化的というのは、教養が必要とかいう話ではなく、自分の人生を楽しんでいるかということだと私は思う。
 自分の人生を、というのもポイント。しばしば他人の人生を生きてしまっている人を見かけるため。

 赤ちゃんのいる生活は基本的にとても体力が必要で、個人的感想ではこれが本当に人類のデフォルトなのかと疑わしくなる。
 寝不足の頭と体、全身の痛みをなんとかだましだまし、山盛りの洗い物と洗濯物をやっつけている時、乾いた洗濯物の上でおもらしなどされようものなら、全ての感情を封印して粛々と手を動かす機械にならないとやっていけない。双子三つ子、年子やその他、各家庭にはよその家とは比較できない大変さがある。


 その大変さの狭間、感情を伴っても暮らしていけるだけの余裕のあるときは、ぜひ労働をやめて、子どもと共に生活をする一人の人に立ち戻ってみると、まず気が楽になるし、子どもへの影響も良いものがあると思う。


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