手話ネイティブになること
ある手話サークルに参加していると、こんな会話が目に入ってきた。
「本を買うのはいいけど、ちゃんとろう者と話をして生の手話を学んで」
「本にはこう書いてあるけど、ろう者はそういう風に表さない、本に一生懸命にならないで」
確かにそうだ。本に書いてあるような教科書的な手話は、実際にろう者の使っている手話と違って驚くことは多い。
でも…ろう者の手話を見てみると、教科書的な手話を崩したものも多い気がする。
日本語でも言葉の崩れはよくある。例えば、「洗濯機」を「せんたっき」と読んだり、「ありがとうございます」を「あざす」と言ったり。
手話の場合、「15」を「10」+「5」ではなく、「5」の形のまま人差し指を2,3回素早く曲げても「15」になるし、「千」なんて丁寧に漢数字を書かなくても人差し指を細かく振るだけで表せる(間違ってたらごめんなさい)。
これは、結局そういう手話なのではなく、ネイティブの表現なのだと思う。(もちろん、手話ならではの表現もあることは理解したうえで。)
そして私は別に、最初のうちは教科書的な手話でいいと思う。
もちろんネイティブになれれば一番いいけれど、その前に積み重ねた方がいい基礎もあると思うし、そもそも、言語の成り立ちにろう者の文化などが反映されていることもある。本と違うことに驚くのも一つの楽しみ。
それに、教科書があると安心する。これは結構大事だと思う。
言語を学ぶときに、必ずしもみんながネイティブになりたいわけではない。相手の話していることを理解して、ある程度コミュニケーションが取れたらそれで十分な人も多い。
でも、手話は違う。学び始める段階からネイティブを求められている。手話を学ぼうとする聴者には、「通訳者になる」ことを求められているから。
なんて窮屈なんだろう。
私はただ、手話という言語を学んで、手話という言語を使う人たちと話がしたいだけなのに。
(誤解がないように言っておくと、私は日本手話ネイティブになりたい)
ろう者の文化や社会的な背景を知れば、それは当然のことだと言われるけれど、本当にそうだろうか。
なんだか、この考え自体がろう者と聴者の溝を深めている気がするのは私だけだろうか。
(…こんな話をろう者や通訳者に話したら、きっと私は今までのように快く手話を教えてもらうことはできなくなる…。と日々怯えながら)
まあ、こんな考え方の違いも、文化や背景の違いとつながっていると思えば面白いのだけれど、どうしてもモヤモヤしてしまう…。
先日、こんな感じの話を母にしたら、「silentを見なさい」と言われた。
まだ見てないのかい!と突っ込まれそうだけれど、どうやらこんな内容もストーリーに含まれていたよう。
Silentを見て手話に興味を持ったのか、最近サークルの入会者が激増中。
何がきっかけであれ、手話やろう者に興味を持った聴者が、手話の勉強を楽しく続けられるといいなと思う。それが結果的に通訳者の増加にもつながるはず…。
そして、私は早くsilentを見なければ。
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