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君と金魚を見るということ

 坂を登りきると生々しい匂いがした。水の音の方に振り向くと、青いプラスチックでできたプールみたいな生簀が地面に置いてあって、中におびただしい数の真っ赤な金魚がさらさらと泳いでいる。生簀には「1匹180円」と黒マジックで書かれた段ボールが立てかけてあり、その隣には両手で抱えられるくらいのアクリル水槽があって、水草の間隙を縫うようにグッピーがせわしなく泳ぐ。地面にそのような水槽が大小7つは置いてあった。夏の強い日差しを遮るトタン屋根に水面の光がゆらゆら反射して、ガレージのようなその場所は浅い池の底のようだった。
 彼女は日差しから逃れるようにその影の中に跳躍すると、昔金魚を飼ったことがあるのだと言った。
 僕も縁日ですくったやつを飼ったことがあるよと言うと、彼女は「長生きした?」と聞いてきた。
「わからないけど、半年くらい飼ったよ」
 生簀を覗いていた彼女が、紺色のワンピースをひるがえした。スカートの裾のレースが、コンクリートで固められた地面に影の花をゆらめかせた。
「わからないって?」
「大きくなりすぎて逃がしたんだ」
 僕は小学2年生の初夏の日を思い出した。秋祭りの金魚すくいでもらった金魚は凝り性の父親が買ってきた飼育セットのもとすくすくと成長し、瞬く間に握りこぶしほどの大きさになった。セットについていた小さな水槽の中で、気の毒なほど窮屈そうに泳いでいたのを覚えている。
 僕は大きな水槽を買うものだと思っていたのだが、元気な金魚が水面で跳ねて水が散ることを快く思っていなかった母親の反対に逢い、その頃アンティークの水筒か何かのコレクションに傾倒していた父親はもはや興味をなくした金魚の水を換えてやることを億劫がって、僕も僕で両親に丸め込まれて近くの川に放すことになったのだ。それがやってはいけない行為だということを学校で習うのはもう少し後のことだった。
 金魚を放した日はよく晴れた日曜日だった。7歳の僕の手でも抱えられる小さな水槽の中で、その金魚は赤いひれを翻しながらしきりに向きを変えていた。水槽の外の世界をきょろきょろと覗いているみたいだった。
「この辺がいいだろ。流れもゆるいし、水草もあるし」
 父親が立ち止まったのは、あまり行かない小さな公園のそばにある小川だった。見るとたしかに、光で満ちた浅い川の中に葉の細い水草が揺れていて、いかにも居心地が良さそうに見えた。
「元気でね」
 僕は水槽を顔の高さまで掲げて金魚に別れの挨拶をした。水槽の中の金魚は関心なさげにふいと横を向いて、赤いひれをゆらめかせた。

「最後まで飼ってあげればよかったのに」
 彼女は微笑していた。
 僕はうぅんと曖昧に相槌を打つ。
「そうだね。どこまで大きくなるか見たかったな」
 その時ふいに僕は、あの小川すら窮屈なほどに、あの時の金魚は大きくなったのではないかと思った。大人が両手を広げたくらいのささやかな流れをせき止めるほど成長した金魚の姿を僕は思い浮かべた。そこまで大きくなったらあの金魚はどうしただろう。誰かが気づいて家で飼うだろうか。

 その店は金魚や熱帯魚、飼育道具の販売を行うかたわら洋風のクラシカルなカフェの営業もやっていて、僕たちはそれが目当てだった。通された2階席の窓からは、さっきまで生簀を眺めていたガレージのトタン屋根を見下ろせた。
 僕たちは2人して頼んだハヤシライスがくるのを待っていた。
「そういえば、どんな金魚を飼ってたの」
 ガレージでの会話を思い出して僕が聞くと、後ろの窓を見ていた彼女は向き直って、水を一口含んだ。
「小さいやつ。お父さんが飲み屋の常連さんからもらってきたの」
 その金魚は彼女が11歳の時、飲み屋の常連が酉の市で気まぐれにすくってきたもので、気まぐれに彼女の父に譲られた。お冷のコップに1切れの水草と小さな赤い金魚を入れて、彼女の父はその夜帰ってきたのだという。
「間違って飲み干さなくてよかったね」
「もう少し酔ってたら危なかったかも」
 彼女は笑った。
「金魚は長生きした?」
「ううん、次の日の朝には死んじゃってた」
 あぁ、と僕はまた曖昧に返事をした。店内にはピアノジャズが流れている。隣のテーブルでは、外国人のカップルがささやくように会話をしている。
 西に傾き始めた光が窓の外をかすめるように、強烈に差しているのがわかった。
「あれから金魚は飼ってないなぁ。今だったらちゃんとした水槽で飼ってあげられるんだけどね」
 生返事をしながら、僕は彼女の白い顔を見ていた。すべすべしたきめの細かい肌に、黒々とした大きな目が深い穴につながる裂け目のように開いている。鼻梁のなだらかな流線が光を受けて、絵画じみた陰影を彼女の顔に落としている。
 僕はコップの中の金魚と、それを見つめる彼女の姿を思い浮かべた。机の上に一つだけ置かれたコップの中に、小さな赤い金魚と細い水草が入っている。彼女は薄く笑みながら、コップの中の金魚に何か話しかけている。その金魚は明日死んでしまうのだ。でも金魚は落ち着き払って、耳を澄ますように彼女の方を向いて静かに浮かんでいる。
 僕が逃したあの金魚はどうなっただろう。小川の中で大きくなって、やがてあの川では収まらなくなって、もしかしたら今は金魚ではなく別の存在として、どこかで生きているのかもしれないと思った。

 ハヤシライスを食べて、また少し歩き、雑貨屋や古書店をひやかしているうちに日が落ちて、お互い明日が早いから解散にしようということになって、僕たちは駅前で別れた。彼女は地下鉄に、僕は少し離れた私鉄に乗って帰るのだった。
「今日楽しかったよ」
「うん、ありがとう」
 どちらからともなくそんな会話を交わして、二、三言、次に行きたいところや会う予定についてぽつぽつと話した。「じゃあ、またあとで連絡するね」と彼女が言った。道には、これから夜の街に繰り出そうという人と、僕たちのように家路を辿り始める人が無方向に行き交っているようだった。僕は昼間に見た金魚の群れを思い描いた。
「じゃ、元気でね」
 僕は手を上げて彼女に別れの挨拶をした。彼女はひら、と手を振るとふいと横を向いて、ワンピースの裾をゆらめかせて駅の中に消えた。

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