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民衆の敵とは誰なのか

Bunkamuraシアターコクーンで上演中の『民衆の敵』を見ました。以下ネタバレを多く含みますが、「近代演劇の父」と呼ばれるイプセンの作品なので、ネタバレ程度ではこの戯曲の面白さは損なわれないだろう、と勝手に解釈して、がんがんとネタバレも交えて書こうと思います。

舞台のいいところは生身の人間が目の前で演じるところにあると思っているので、「噓から出たまこと」という言葉があるように虚構であると同時にその世界を現実に体験でき、youtubeで音楽が無料でいつでも聞ける時代になっても歌手のライブやコンサートで人々が涙するように、NetflixやAmazon Primeのおかげで大量のコンテンツを家で見ることができるようになっても映画館で映像と音響の迫力に圧倒されるように、自分の体で体験すると感動してしまうような気がします。


シアターコクーンのホームページに書かれたあらすじです。

温泉の発見に盛り上がるノルウェー南部の海岸町。その発見の功労者となった医師トマス・ストックマン(堤真一)は、その水質が工場の廃液によって汚染されている事実を突き止める。汚染の原因である廃液は妻カトリーネ(安蘭けい)の養父モルテン・ヒール(外山誠二)が経営する製革工場からくるものだった。トマスは、廃液が温泉に混ざらないように水道管ルートを引き直すよう、実兄かつ市長であるペテル・ストックマン(段田安則)に提案するが、ペテルは工事にかかる莫大な費用を理由に、汚染を隠ぺいするようトマスに持ち掛ける。一刻も早く世間に事実を知らせるべく邁進していた、新聞の編集者ホヴスタ(谷原章介)と若き記者ビリング(赤楚衛二)、市長を快く思っておらず家主組合を率いる印刷屋アスラクセン(大鷹明良)は、当初トマスを支持していたが、補修費用が市民の税金から賄われると知り、手のひらを返す。兄弟の意見は完全に決裂し、徐々にトマスの孤立は深まっていく。カトリーネは夫を支えつつも周囲との関係を取り持とうと努め、長女ペトラ(大西礼芳)は父の意志を擁護する。そしてトマス家に出入りするホルステル船長(木場勝己)もトマスを親身に援助するのだが……。トマスは市民に真実を伝えるべく民衆集会を開く。しかし、そこで彼は「民衆の敵」であると烙印を押される……。

クライマックスの集会のシーンで、民衆は無知であれば見なくて済んだ現実など必要がない、と言わんばかりに主人公を糾弾します。政治・メディア・経済といった社会をよくするために人間が創り出したはずの仕組みを操る人々も、不都合な真実には目を背けようとします。

洗練された舞台美術により現代と虚構の世界がうまく繋がれ、ベースとなる会話劇に挟まれる抽象度の高い演出により言語化できない部分も色濃く描き、シンプルかつ的確な照明音響により集中力がうまく調整されていました。


観劇後色々なことを考えたのですが、キリスト教との比較をしてみるというのはなかなか面白いように感じました。信じる、信じないの問題はあまり関係なく、2000年以上様々な知識人に解釈され続けてきており比較対象としての強度が高いからです。

キリスト教の文脈でこの戯曲を解釈するとなると、「知識」の重要さとキリスト教における「預言者・救世主・使徒」の記号的意味が深く関わっていると思います。

まず、「知識」という意味ではアダムとイブの逸話が比較対象としてふさわしいと感じます。善悪の知識の実を食べて知識を得てしまった最初の男女は、神によって楽園から追放される。すなわち、知識を得ることをなければ幸せに暮らすことのできたはずだった未来を失ったということになります。『民衆の敵』においては、劇の冒頭にある牧歌的な家族の歓談が幸せの風景として描かれている分、主人公が”知ってしまった”ことによって混沌の中に足を踏み込んだとも読めます。また、民衆にとっても真実を知ることにより街の今までの生活を手放さなくてはならなくなる、ということになります。

このような例はキリスト教には限らず、短篇『オメラスから歩き去る人々』(平和な街オメラスが一人の不幸な存在によってその平和を保証されている、という話)など、繰り返し語られる話です。日本で現在この戯曲を上演するにあたっては原発の問題は避けては通れない話題だったと思います。原発のリスクではなくメリットの部分をより多く見せ、設置した場所にはお金を投入し利益を生み出し(依存の構造を生み)、電気を首都圏に送り込んでいたことは知りたくない事実でもあり、大衆とそれを代表する機関が便利さを追求してその事実を隠し続けた結果でもありました。

二つ目の解釈は、主人公が預言者と「キリスト」と使徒の性格を兼ね備えた人間であった、というものです。主人公は劇の肝となる集会のシーンで「民衆の敵」と認定されます。しかし、主人公は科学的根拠を元に温泉の水には有害物質があるため現状を是正する必要がある、という一貫した主張をします。科学的根拠というのは感情的なものをなるべく排しているので、一定の真実を伝えてくれるという面で神のような存在です。神の言葉、つまり真実を伝える人のことをユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教を信じる宗教では預言者と呼びます。そういう意味で主人公は科学の神からお告げを授かった預言者そのものでした。

また、告発の動機は健康被害を食い止めようというものなので、自分を含めた村全体の人々や観光にやってくる人々の健康を望んでいるはずでした。その点で主人公はもっとも民衆を愛している存在と見ることができます。どんな妨害にも負けずに危険にさらされながらその行動を続ける様は、自己犠牲と愛の精神を説き迫害されたキリストのように映りました。そしてキリスト同様、主人公は「民衆の敵」とされ、職を追われ、家に石を投げ込まれました。キリストが裁判で処刑を言い渡されたように、主人公は社会的な死を宣告されました。

キリストは裁判の後ゴルゴダの丘で磔の刑に処されましたが、主人公は殺されませんでした。また、村から逃げずに学校を開き、はみ出しものを集めて教育を行うという決意を固めたところで舞台の幕はおります。つまり、村という社会にとどまり自分の信念を伝えるという行動に出るということです。村から逃げれば村の中での存在は殺されたことになります。しかし、その道を選ばなかったことで生きて自分の思想を再生産し、正しいと思うことを拡散していこうとしたのです。これは迫害を受けていたキリスト教が初めは異端の宗教とされながらも世界中に広がる始まりとなった、ペトロをはじめとする使徒の行動と同じことをしています。

主人公は預言者であり、救世主「キリスト」であり、使徒でもあったということになります。


今日の日本でこの戯曲を上演する意味は多くあります。先に例を挙げた原発の話はもちろん、インターネット社会の中で発言力の権威が現実社会と離れて大衆化しつつあり、敵かもしれないというだけで匿名で人を叩く社会はこの戯曲の舞台であるノルウェーの温泉町とあまりに似ています。そして、日本人は温泉が好きです。

シアターコクーンの劇場にこのような劇を観にくる観客は、チケットを購入する金銭的な余裕と、戯曲をわかろうとする知的水準を求められます。いくら洗練されていようとも、暗く、目を背けたくなるような芸術というのは大衆向けではありません。しかし、1882年に発表されてから時代にもまれながらも生き残ってきたこの作品は、長い時を経て異国日本で上演されているということからわかるように、時を超えて観劇者の心を掴む何かがあるはずです。劇を観て現実世界にどのようにアプローチするのか、ということが観客に課せられた使命なのかもしれません。


民衆の敵は、真実であり、民衆を誰よりも愛する主人公であり、民衆自身である。舞台を見るという行動により、そんなあまりにも冷酷な結論を作者に突きつけられると同時に、主人公が体現した「世界一強い人間は、なにがあっても一人で立っている人間なんだ。」というメッセージから、君は何を信じて生きるのか、と問いかけられ、人間としての度量をはかられているような気がしました。

名作は裏切らないと改めて思わされる贅沢な時間でした。堤真一さん、面白いしかっこいいなんて、ずるい。


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