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「ある言葉をつくる」「ある言葉を使わない」という教師の専門性

わが家だけの「あおむし」

 わが家には7年ほど前に購入したiPad miniがあるのだが、僕たち家族はそれを「あおむし」と呼んでいる。今は長男の遊び道具になっているのだが、彼も「あおむしどこにあるの?」「あおむしやっていい?」という様子だ。これは息子にiPad miniを初めて触れさせたときに、「はらぺこあおむし」のアプリをインストールしたことに由来する。
 家族の中だけで通用しているこういう単語は、どこの家にもひとつぐらいはありそうだ。わが家の「あおむし」も厳密にはハードとしてのiPad miniと同じ意味ではなく、僕たちが「あおむし」と呼ぶときは、「息子にとってはしばしば楽しすぎるものであり、親としてはその使用について多少なりともコントロールすべき対象である」というある種の規範意識をまとっている感じがする。

「『花見』だよね」

 このように、あるコミュニティだけで通用する言葉や、あるいはよく知られた言葉でもコミュニティによって独特の使われ方をする場合があるが、それは学校や教室においても同様だろう。だいぶ前に聞いた、T先生という小学校教員の実践報告でも似たような話があった。詳細はうろ覚えだが、小学校のクラスでお花見をしたとき、彼らのすぐそばで高齢者のグループもシートを敷き始めた。そこで子どもたちと高齢者との間で小さないさかいが起こったようでやや気まずい雰囲気になったのだが、最終的には心を通じ合わせ良い交流ができたという。それ以来彼らのクラスでは、「花見」という言葉が、「異質な他者と共生するための思いやりと行動」という意味合いをもつ合言葉になった。似たようなトラブルが起きたとき、「『花見』だよね」といえば、それだけである種の規範意識がクラスで共有され、子どもたちの行動を喚起するようになったという。

 T先生の専門は国語で、彼女自身はこの「花見」の経験について、生活指導の実践であると同時に言語教育の実践であるという意識を強くもっていたことが印象的だった。このnoteの趣旨に重ねるなら、これはまさにコミュニケーション実践だ。恐らくこういう「花見」みたいな言葉はどこのクラスでも自然発生的に生まれているのだろうが、コミュニケーション実践として意識的に行うことで、より子どもたちの認識に働きかけるような生活指導につながり得る。

「いじめ」という言葉をめぐって

 さて、そのときにT先生の別の実践報告も読んだのだが、ある子どもとクラスメイトとの間のトラブルとその後の経過を書いたその報告では、今度はある言葉が一度も使われていないことに気付いた。それは「いじめ」という言葉。実際、彼女自身、この報告で「いじめ」という言葉を使わないことに拘っていた。子どもたちの生活やトラブルの中に、「いじめ」という言葉では掬い取れない、あるいは「いじめ」という言葉を使うことで見えなくなる繊細な関係性を、彼女は大事にしているように見えた。

 一方で、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができて、「いじめ」という言葉が心理的なものを含むものとして明確に定義され、教師が「いじめ」の発見や同定を「正確に」行うことが強く求められるようになった。いじめが原因と考えられる子どもの自死などが起こると、記者会見では「学校はいじめと認識していたか」と問いただされる。学校の賠償責任にも関わることもあり、学校や教育委員会は、法的に厳密な意味での「いじめ」があったかどうかという線引きに拘らざるを得なくなる。その結果、学校や教育委員会は、被害者となった子どもの家族や世論の不信を買うことになってしまい、事態は事実や教育的意図などを超えて、「いじめ」という言葉をめぐるコミュニケーションゲームの様相を呈する。

 もちろん、学校や教育委員会が自らの保身のために、「いじめ」の実態を否定するような例も実際にはあるだろう。しかし、T先生の実践姿勢に触れた僕にとっては、たとえそれが子どもの命を奪う可能性があるものだとしても、あるいはそういう可能性があるときこそ、そこで「いじめ」という言葉を安直に使うべきではない、と教師が考える状況もあると思うのだ。もちろんそれを「いじめ」と呼ばないことと、介入しないこととは、全く別のことだ。また、被害者の家族のケアのために、そのやりきれなさの対象として、「いじめ」という実態を可視化させることも、コミュニケーション上重要なこともある。だからこそ、本来、「いじめ」という言葉の定義は教育的意図や当事者のケアの文脈の中で(静的・固定的ではなく)動的に扱われるべきものであって、それを法律用語として明確な定義の線引きをし、それと照らし合わせて「あてはまる」「あてはまらない」を事後的に同定しようとすれば、必ず歪みが出てくるように思うのだ。

 子どもたちの生活や関係における「いじめ」という言葉の使用(それを使わないという判断も含めて)について、動的、生態的に捉える姿勢やスキルは、教師という仕事のプロフェッションのひとつとして、もっと信頼されるべきものだ。固定的な「いじめ」の定義を社会で共有し、それをこぞって撲滅しようとする圧力は、むしろ「いじめ」を深刻化・構造化してしまう可能性がある。この事態に風穴を開けるためにも、コミュニケーションの視点を教師の専門性の中に位置づけることも必要だと個人的には考えている。

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