山崎一希(教育のためのコミュニケーション)

1983年茨城県出身。NPO法人教育のためのコミュニケーション代表、茨城大学広報室専門…

山崎一希(教育のためのコミュニケーション)

1983年茨城県出身。NPO法人教育のためのコミュニケーション代表、茨城大学広報室専門職。ラジオディレクター、PRコンサルタントなどを経て現職。国立大学協会広報委員会専門委員も兼任。共著書に『往復書簡・学校を語りなおす』(新曜社)。https://comforedu.org/

最近の記事

放送の現場からの教育・コミュニケーション実践—LocalizationとLast One Mile

草谷さんとの出会い 草谷緑さんと出会った(対面ではまだ一度もお会いしたことがないが)のは、今年3月に横浜国立大学の石田喜美さんと開いたオンラインイベント「教育言説のファクトチェック<プレ入門編>」だった。参加いただいたあとFacebookで交流する中で、NHK Eテレの教育番組の制作を手がけている草谷さんと、いつか放送と教育をテーマとしたトークをしたいと密かに目論んでいた。それは僕自身がかつてラジオ局のディレクターの仕事をしていて、教師による「教材化」と放送における番組制作に

    • 敗北を抱きしめて:SNS時代の公共コミュニケーションの矜持

       PR会社に入ったときの面接で「『戦争広告代理店』(高木徹)でPR会社に興味を持ちました」と話したら、「PR会社に入る人はだいたいあれ読んでるよね」と言われたものだ。2021年の今であれば、『140字の戦争 SNSが戦場を変えた』(デイヴィッド・パトリカラコス著/江口泰子訳)が「だいたいあれ読んでる」本になっているかも知れない。広報研修の講師をすると「おすすめの本はありますか」とよく聞かれるんが、今後はこの本を薦めることにしよう。 ナラティブの争いとしての戦争 イスラエルと

      • NPO法人「教育のためのコミュニケーション」できました

         気付いたら1年以上も更新していなかったが、その間何もしていなかったわけでもなく、むしろ自分の人生の中では重大なことがいくつか起きていた。しかし、このnoteにとって重要なことはただひとつ、「教育のためのコミュニケーション」という名のNPO法人を設立したことだ。 https://comforedu.org/ 放っておくと怠惰になるから NPO法人を作るぞ!と言うと、「どうしてNPO法人なの」と質問されることがある。この質問に込められた意図は2つに分類できる。ひとつは「どうし

        • 能力のナラティブからカリキュラムをつくる

           前回に続いて「あらゆる「能力」はナラティブなものである」という話をしたい。 誰でも自分で能力を設定できる その人の中のどんな要素を括って「能力」と定義するかは恣意的なものであるということは、理屈としては誰でも自分で「能力」定義を設定し、それを対象化、道具化できるということだ。たとえば、社会(たとえば、学校)が求める能力指標に囚われて自己肯定感を低めている学習者には、カウンセリングなどを通じて新しい「能力」定義を作らせることで、自身の潜在的なポテンシャルに気づかせ、それを意

        放送の現場からの教育・コミュニケーション実践—LocalizationとLast One Mile

          あらゆる「能力」はナラティブなものである

          「教育のためのコミュニケーション」という命題を考えるとき、僕は「あらゆる『能力』は基本的にナラティブなものである」という前提に立つ。 ナラティブとは ナラティブというのは、個人や社会の認識を形成する動的な語りの塊みたいなもの。物語の語りなおしによってその人の経験世界をずらし、精神疾患やトラブルへの対処を図る実践を「ナラティブ・アプローチ」という。ここには、人びとが本質や真実と認識しているものは単にそのとき選ばれた支配的な物語によるものでしかなく、それとは異なるオルタナティブ

          あらゆる「能力」はナラティブなものである

          【イベント】「教育のためのコミュニケーション」を語ります!

          このnoteで発信している「教育のためのコミュニケーション」というコンセプトについて、自分の考えや経験、実践を踏まえて初めて体系立てて話をする機会を、私自身もコアメンバーを務めている「こども学校プロジェクト」のスタディ・ミーティングとして設けてもらいました。 【日時】2019年7月21日(日)10:00~12:00 【場所】カフェリベル(水戸市南町1-2-26) 【参加費】無料 【話題提供】山崎一希 今、原稿と投影用のスライドを作っているところですが、まず「教育のためのコ

          【イベント】「教育のためのコミュニケーション」を語ります!

          カリキュラムのビジュアルデザインを考える

          理屈の話が続いたので、自分が大学の広報として関わってきた仕事に言及してみる。今回のテーマは「カリキュラムのビジュアルデザインを考える」だ。 「カリキュラム」とは?まず「カリキュラム」という言葉の定義を押さえておきたい。日本では「教育課程」、あるいは教育のためのプログラムの束のようなイメージで使われる用語だが、もともとは学びの履歴を表す言葉だ。僕は大学生時代のカリキュラム論の授業で、いわゆる教育課程としての「教育カリキュラム」に対して、学習者が経験する「学習カリキュラム」とい

          カリキュラムのビジュアルデザインを考える

          「アクティブなのとテンションが高いのとは違う」

           数年前のことだ。NHKで『阿修羅のごとく』を再放送したときに、スタジオゲストでいしだあゆみが出演していた。そこで彼女が、かつて向田邦子に言われた言葉として、「元気なのとうるさいのは違う、暗いのと静かなのは違う」といったようなことを紹介していたのだが、それが今でも印象に残っている。 テンションが高い英語の授業 集英社から出ている『kotoba(コトバ)』という季刊誌の最新号(2019年春号)の特集が、「日本人と英語」。やれ英語4技能を正しく評価せよとか、やれ民間の英語検定試

          「アクティブなのとテンションが高いのとは違う」

          「ある言葉をつくる」「ある言葉を使わない」という教師の専門性

          わが家だけの「あおむし」 わが家には7年ほど前に購入したiPad miniがあるのだが、僕たち家族はそれを「あおむし」と呼んでいる。今は長男の遊び道具になっているのだが、彼も「あおむしどこにあるの?」「あおむしやっていい?」という様子だ。これは息子にiPad miniを初めて触れさせたときに、「はらぺこあおむし」のアプリをインストールしたことに由来する。  家族の中だけで通用しているこういう単語は、どこの家にもひとつぐらいはありそうだ。わが家の「あおむし」も厳密にはハードとし

          「ある言葉をつくる」「ある言葉を使わない」という教師の専門性

          保守化する学校の記憶へのコミュニケーションアプローチ

          廊下に立たされる 小学校に入学するにあたって不安だったことのひとつに、「廊下に立たされるかも知れない」というのがあった。子どもが重たいバケツをもって廊下に立たされているイメージは、少なくとも日本の文化で育ったある年代以上の人は共通してもっていると思うのだが、実際には自分が廊下に立たされることはなかったし、クラスメイトが廊下に立っているのも目にすることはなかった。そもそも僕の通った小学校は当時まだ新しい校舎で、教室の横に廊下はなく、移動式の棚がとりあえずの境界となって「オープン

          保守化する学校の記憶へのコミュニケーションアプローチ

          「君が僕を知っている」―幸せでストレスフルな評価の話

           RCサクセションの「君が僕を知っている」という曲があるのだが、その歌詞について、「『僕は君を知っている』ではなく、『君が僕を知っている』と断言できる、『僕』と『君』の信頼関係は素敵だ」みたいなことをラジオで誰かが言っているのを聞いて、妙に納得した記憶がある。  一方で、今の教育現場における「評価」の場面では、「君が僕を知っている」という信頼関係が失われている、というのが今日の話だ。 お師匠さんは僕を知っている そんなことをふと考えたのは、昨日、武道の指導を教育学の立場で研

          「君が僕を知っている」―幸せでストレスフルな評価の話

          教育のためのコミュニケーション―このnoteでめざすこと

           ところでこのnoteだが、facebookで書いた入試についての記事を見た友達から「noteで発信したほうがいいよ」と勧められてスタートしたので、記念すべき最初のポストが、「はじめました」宣言も特にないままいきなり個別具体的なテーマとなってしまった。第3回にして改めてこのnoteで自分が表現したいことについて記しておこう。 「教育のためのコミュニケーション」という看板 今回、自分のnoteに「教育のためのコミュニケーション」という看板を掲げてみた。これは僕が近いうちに設立

          教育のためのコミュニケーション―このnoteでめざすこと

          教育政策における「アクティブ・ラーニング」というタームの戦略と問題点

           猫も杓子も、という慣用表現はこういうときに使うのだろう。「アクティブ・ラーニング」の席巻である。 「対話的で深い学び」というコンセプトは共感するし、各学校での素敵な実践に僕自身も触れる機会はあるが、ここでは政策コミュニケーションタームとしての「アクティブ・ラーニング」という言葉について考えてみたい。 アクティブ・ラーニング的な実践は歴史上いくつもあった 「learning by doing」と言ったのはジョン・デューイだったが、そんな外国の古典を持ち出さずとも、日本の学校

          教育政策における「アクティブ・ラーニング」というタームの戦略と問題点

          入試改革のHowを考える前に考えること

           大学入試の話をFacebookに書いたら思いのほか盛り上がり、特に「入試なんていらない」というコメントがいくつかあっておもしろかった。教育学を勉強していたときと大学職員になったときとでは眺める入試の風景も少し違ってくるものだが、ここ最近の自分の考えをまとめておきたい。それなりに大きな話である。 世の中の3つの重要な変化 企業の新卒採用活動において学歴がモノをいう状況はまだまだ普通に生き残っていると思うが、そうした学歴主義においては、大学でどんな学びをしてきたかでは当然なく

          入試改革のHowを考える前に考えること