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来世は願わない

午後6時50分、結局なんにもなかったね、と私は言った。ぼんやりとして箱から声だけがリズムを作るように流れ出している空間に、その声は頼りもないまま放流された。


史上最強の台風ですら、鉄筋コンクリートにまもられた部屋の中には騒音以外なんの影響も及ぼさないそのことを、不謹慎だということを重々承知していながらも、私はとても空々しく馬鹿げたことに思えた。

よかったねえと嬉しげな声を聞きながら、ああ、そんなふうに喜べばいいのか。と思う。そういうことはしっぺ返しみたいにいつかやって来て、私はおばあさんになって一人で房総辺りに小さな一軒家を構えて静かだけれども心安らぐ暮らしをしている最中にあっけなくこんな台風にやられてしまうのかもしれない。口に出すと、それは実体を持って私の雲行きを包んだような気がする。ほんとうにそうなったらどうにも少し、滑稽である。


死に憧憬のかけらも抱いてなどいないし、こういう日に堤防を覗きに行くなんて死に行くこともしない。
思いもよらない角度から喉笛に噛み付かれるのをただ待ち受けて、それでもその時になると結局、ビビる。そういう馬鹿なんだなあと感じる。


もしテレビという代物がなければ、痛ましい事故を知ることすらできなくて、あたしはこう綴ることが無神経で、不謹慎だということも、もしかしたらその言葉や概念にも首を傾げたまま暮らしているのかもしれない。


そういう夢想はひどく浅はかで、ぬくぬくと暮らしているからこそ出て来るものだと痛いほど内省して、それでも私のようなやつにも朝が来てしまうことを、私はやっぱり、滑稽だな、と思ってしまうのだ。

なんとなく終わらせたい、と思っている人の揺らぎが電線を伝播して町に薄暗い波紋をしずしずと広げていっている。

それでも銀杏の裏側から光が透けて金色に街を染めゆく様子に心を痛めて、それが胸を打たれるということなのだと、知っていながら蔑ろにもしていく。

生きたいという気持ちと死にたいという気持ちはまったく別の場所に、別の意味で、共存しているのだということを小さな木箱に収めて銀の象装飾の蝶番を中指で、すこうし撫でて鼻歌を歌うべきなのですね。

たぶんあたしはなんにもわかってないや、誰もに救われてほしいと思うけれどそれは誰のこともどうでもいいのと同じってそんなことを聞いた。嘘だと思う。

あたしはこんなにも好きな子になんにも思われていないのに、それでも好きな子のことを一番好きだし、ほんとうにずっと笑っていてほしいと思っている。それと同じくらい私の気持ちを知って、許してほしいと今は思ってしまう。

ゆるされたがりで、だけど大好きだ。あなたにだけは死んでほしくない。あたしにどんな酷く理不尽なことが起こったとしても、あなただけは呪えない。どうしたって恋なのだ。ゆるがない美しさは美貌とかそういうものに裏打ちされているわけじゃないのに、ただその輪郭だとか頰の形だとか仕草のひとつひとつに川面を弾む光のようなきらめきがあって、いつもいつも胸を打たれてしまう。そういうあなたが大好きだ。

知らずのうちに胸を打ち、あたしの希望にも絶望にもなり、あっけらかんとした笑顔もぐうと不機嫌そうに眉をゆがめる顔も健やかな寝顔もいたいほど大切な人。

曇ることのないように。

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