見出し画像

【連載 Bake-up Britain:舌の上の階級社会 #36】グリーンピースのスープとシェパーズ・パイ(3/4)

「今日はシェパ―ズ・パイか」

「羊飼いのパイ」とか「農家(コテージ)のパイ」という名のとおり、もともとは農村部や郊外に住む庶民の料理だったことになっているが、イギリス王室の新旧メンバー、特にウィリアム皇太子ともう王室ではなくなったハリーの兄弟も大好きな、「階級と関係なく広く愛されている」料理だというし(『食文化からイギリスを知るための55章』明石書店、2022年、237頁)、学校給食の定番メニューでもあることから、もしかしたら外向けの「国民食」であるフィッシュ&チップスに対して、とても「普通の」、イギリスで生活していれば日常的に家庭で作られている「国民的」食べ物だと言えるのかもしれない。フィッシュ&チップスは基本的に店で買うもので家では作らないから、なおさらそう言えそうである。

石原孝哉・市川仁・宇野毅(編)『食文化からイギリスを知るための55章』明石書店、2022年

しかし、である。ウィリアムとハリーには幼い頃からダレン・マグレディという専属の料理人がいて、「アツアツでトロッとしたお肉に、柔らかいマッシュポテトととろけたチーズ」(同書同頁)を供されていた一方で、親が働きに出ている相対的貧困家庭の多くではスーパーの、それもウェタローズやマークス&スペンサーのような高級ではなく、テスコの「ヴァリュー」シリーズやアズダだったり、アイスランドという冷凍食品しか売っていないスーパーのものだったりを食べている。安い冷凍食品がダメだと言っているのではなく、フィッシュ&チップスと違って家庭の台所で比較的簡単に作れる料理とはいっても、時間的経済的理由によってそうできない人たちがこれまでも必ず一定数はいて、その数は増えているということなのだ。

日常的に食卓に上るものこそ家庭で手作りするのが普通だという考え方ほど階級的なものはない。ロバート・アルトマン監督の傑作群像劇映画『ゴスフォード・パーク』(2001年)のワンシーン。マギー・スミス演じる伯爵夫人が、ある朝、朝食のトレイにマーマレードの瓶が乗っているのを目に止め、「買ったマーマレード?なんてこと、そんな頼りないものを」と驚くシーンがある。味が薄いとか安っぽいとかいう嫌味でもあるし、そもそも切らしてはいけないマーマレードを商品として買うという消費行為を蔑む上流階級の貴族的アマチュアリズムが見事に表現されている。言うなれば「買ったシェパーズ・パイ!」、というわけである。

『ゴスフォード・パーク』(監督:ロバート・アルトマン、2001年)

でも、家庭で手作りされたシェパーズ・パイが全て物事をスムースに運ぶとは限らない。カズオ・イシグロが黒澤明の古典をベースに舞台をイギリスに移して脚本を書き、名優ビル・ナイが主演する『生きる―Living』(2022年)では、シェパ―ズ・パイはなかなか難しい役どころを与えられている。胃がんのため余命半年と宣告され絶望に陥ったウィリアムズ(ビル・ナイ)だが、妻に先立たれてから仕事まみれだった生涯を悔いてなにか楽しみを見つけようとしても、どうやって見つけていいのかさえわからなくなってしまっていた。ロンドン市役所の市民課の部下だったマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)のおかげで、ようやく生きる意味を再発見しかけるも、親しげに話す2人の姿を見咎めた噂好きの女性によってそのことがウィリアムズと同居している息子夫妻の知るところとなり。。。

『生きる―Living』(監督;オリバー・ハーマヌス、2022年)

「親父何をやっているんだ」と問い詰めたいがどう切り出していいかわからないまま父の帰宅を待つ息子と、余命が半年しかないことをどうやって息子夫婦に告げるべきか逡巡しているウィリアムズの間に置かれるのが、息子の妻が作った夕食のシェパ―ズ・パイなのだ。義父と夫の皿にシェパ―ズ・パイを取り分けながら息子の妻は夫を急かすが、「うーん、いい匂いだ」、「今日はシェパ―ズ・パイか」と食卓につきながらつぶやく父に、息子は何も言えない。父もまた、癌のことを告げることなく食事が始まってしまう。そして父を問い詰めずシェパ―ズ・パイを食べ始めてしまったことを、息子は後になって後悔するのだが・・・(続きはぜひ本編をご覧ください)。

夕食がトード・イン・ザ・ホールやベーコン・サンドウィッチだったら違ったかもしれないが、いい匂いの湯気を立てて食卓に運ばれてくるフィッシュ・パイでもアイリッシュ・シチューでもきっと状況は変わらなかっただろう。しかしこれをシェパ―ズ・パイにしたイシグロの発想は秀逸だと思う。いや、そうではなく、むしろシェパ―ズ・パイしか思い浮かばなかったのかもしれないのだが。


次回の配信は9月29日を予定しています。
The Commoner's Kitchen(コモナーズ・キッチン)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?