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鳥居⛩️めぐる 其ノ1「 馬頭観音」


 鹿児島県大隈半島、都城志布志道路、末吉を出て垂水南之郷線で岩川方面へ。そお街道と交差する所にある丸山地区。近くに寺や神社はない。
小高い場所。空は広く高い。真っ白い大きな雲は形を変えずに風にのる。空の奥で鳥が歌い踊る。一面に広がる茶畑の葉が1枚1枚ひかり輝く。おだやかに時は流れる。

あたり一面に広がる茶畑

 吸い込まれるように、「馬頭観音」と書かれた鳥居をくぐり進むと、石に彫られた観音様がいた。鼻に蝶々がとまっている。
第一印象はおてんばさん。鼻にとまった蝶々がその印象を強くした。小顔で髪を高い位置で束ね、エキゾチックな風貌。座って両脚の上に組まれたしなやかな手。今にも立って動き出しそうな身軽さ。裾の短い着物を着たきゃしゃな手足で、蝶々を追いかけている姿が目に浮かぶ。ニックネームは馬子 。


道路より約30メートル入ったところにあります


 幕末から明治初期に祀られたのではないかと、この地区の公民館長で、歴史に詳しい勝目興郎さんに聞く。牛馬は農家にとっては、家族同様に貴重な存在だった。馬、牛に感謝をし、農作物の豊作と安定への願い、生きていくための祈りがそこにあったと思われる。
その頃この地域は、畑作中心の生活で牛、馬に頼る農作業であった。南九州ならではの台風、水害、猛暑、高温、多湿、桜島爆発による降灰。人も作物も病気とのたたかいがあっただろう。苦労を重ねて食べていく。いのちの重み、家族のきずな、集落のまとまりが想像できる。

 1863年(文久3年)の薩英戦争、1864年(元治元年)長州征伐と1868年(慶応4年)戊辰の役では、この地域からも出軍があった。この頃、廃仏毀釈で地域の大きな仏寺が全廃された。1877年(明治10年)の西南戦争では、この地も戦場となった。1909年(明治42年)神社合祀が行われる。1937年(昭和12年)日中戦争はじまる。軍馬徴発。戦時中は農耕馬も軍馬として戦地に送り出されたが、戦後一頭も内地には帰って来なかった。1939年(昭和14年)第二次世界大戦はじまる。1941年(昭和16年)太平洋戦争がはじまり、1945年(昭和20年)終戦。
1970年(昭和50年)以降になって農機具の機械化がすすみ、観音様への願いも変化してきたであろう。

 人々の心のよりどころとなり、時は流れる。見上げる空の色だけは、変わってはないだろう。
馬子に願いを叶える得意分野は?と尋ねたら、「なんでもOK」と返ってきそうだ。

観音様から見た風景


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