言葉を与えることで、取り零していく感情たち【#心の柔軟体操】

「え」

テレビを観ていたら、中学校の後輩が出てきた。どうやら同業他社に勤めているようだった。それも、業界最大手の。

行きたくても行けなかった会社だ。二回も落ちた。二回目は面接にすらたどり着けなかった。

「…確かに。優秀だったもんね」

口から言葉が滑り落ちた。そうだよね、私と違って、優秀だった。コツコツしているような感じだった。

…そうだったっけ?その子とどこかで接点はあっただろうけど、人となりを詳しくは知らない。

自分が選ばれなくて、その子が選ばれた理由を咄嗟に探し、納得しようとしている自分に気がついた。

今のところ、職場には感謝こそあれど、不満はない。でも、最大手に入ってみたかったと思わないわけではない。景色を、みてみたかった。

共通の知り合いからどう見えるか、頭のソロバンを俊敏にはじく自分だって、いたはずだ。いなかったわけがない。

言葉を与えることで、もっとモザイク状で、もっと絡み合った何かがなかったことになりかけた。

取捨選択されて整った感情。

悔しいとか、悲しいとか、腹が立つとか、切ないとか。そういった言葉には拾いきれない感情があるのは知っていて、じゃあどう言葉を当てていくのか?は一生の課題で。

既製品の靴や服が全員をカバーしきれないのとなんだか似ている。無理して履いたヒールの、ちょっと前の靴ずれが疼いた。

どんなに逡巡して言葉を選んだって、零れ落ちていくものは必ずあって。後々、そうじゃなかったよなと腹落ちする瞬間が訪れたりする。

とても自分が試されている。細かな切り傷をつくっても握りしめて凝視するのか、指の隙間からサラサラと落ちていく様子を横目に眺めるだけなのか。

感情に囚われる恐ろしさも痛いほどわかっているけれど、冷静であることと心を動かさないことはまた違うんじゃないかって。

冷たい都会の動じない大人になりつつも、たまには抗ってみたくなる。

「見てろよ御社。落としたことを後悔させちゃる」。これが、今、一番しっくり来る。

ただ単に、エレファントカシマシを聞いているせいかもしれないけどね。

日付:2019年8月29日(木)、執筆時間:約30分(手直し10分)、場所:地下鉄、音楽:エレファントカシマシ『明日に向かって走れ-月夜の歌-』

振り返り:嫉妬心はとても薄いけれど、ゼロではない。自分発の悔しさ以外にも、バリエーションってあるよねと思って書いてみた。心を動かさなければ、感情の幅も深さも変わらない。と戒める。

毎日、仕事の休憩時間にエッセイ?を書き続けている方をとてもリスペクトしており、毎日ではなくとも書いてみようと思い立ってみた。#心の柔軟体操 と名付けてみた。本当は心の筋トレにしたかったけど、既出だったので。出勤か退勤時に書ければいいな。



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