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【コンサル物語】反逆児、嫌われ者、自信家

 このタイトルが示すのは、ある人物とその人物が設立した組織を評した言葉の一部です。それはアーサー・アンダーセンその人であり、彼がシカゴで設立したアーサー・アンダーセン会計事務所を指しています。コンサルティングの歴史、特にBig4会計事務所(Deloitte・PWC・KPMG・EY)のコンサルティングの歴史を紐解くうえで、外すことはできない人物であり会計事務所です。

 アーサー・アンダーセンがコンサルティングの歴史にどう関わっていたか、歴史の細部に入る前にアーサー・アンダーセンとは何者なのか、その全体感に触れておきたいと思います。

 アーサー・エドワード・アンダーセン(Arthur Edward Andersen)は20世紀前半にシカゴを中心に活躍した会計士で、かつて存在したアーサー・アンダーセン会計事務所の設立者です。1885年に(シカゴのある)イリノイ州で生まれたアーサーですが、20世紀初期の同時代にシカゴで活躍したエドウィン・ブーズ(コンサルティング・ファームのブーズ・アレン・ハミルトン設立者)は1887年生まれ、ジェームズ・マッキンゼー(マッキンゼー・アンド・カンパニーの設立者)は1889年生まれの同世代です。

 アーサー・アンダーセンは機械製造会社等で経理担当としてキャリアを積み、1908年(23歳)に公認会計士となり、1913年(28歳)にシカゴでアンダーセン会計事務所を設立しました。アンダーセン会計事務所は設立時に会計監査、税務、コンサルティングの3事業を対象とすることを決めていました。当時アメリカ最大手の会計事務所プライス・ウォーターハウスは会計事務所はコンサルティングに慎重であるべきだと言っていましたが、十分に教育したアンダーセンの社員であれば問題は起こらないとアンダーセンはその忠告を無視しました。

 設立直後の1910年代にアメリカの連邦レベルで税法が大きく変わる中、税務サービスを強みとしたアンダーセンは多くの顧客を獲得することができました。彼らは税務サービスで獲得した顧客に対して、会計監査やコンサルティング分野のサービスを売り込み、契約を拡大していきました。

 1920年代はアンダーセンに取って最初の成長期でした。ニューヨークやシカゴの投資銀行から財務調査の依頼を頻繁に受け、そのアウトプットは投資銀行から高い評価を得ました。

 1920年代の成長がそのまま続けばコンサルティングの歴史は違っていたかもしれませんが、1930年代に成立した法律(SOX法)により会計事務所は会計監査を続けるかコンサルティングを続けるかの二者択一を迫られました。アンダーセンは当時の売上の大部分を占めていた会計監査を選択し、一時的にコンサルティングからの撤退を決めました。

 アンダーセン会計事務所が再びコンサルティングに進出するのは、第二次世界大戦後のコンピュータ時代の幕開けを待つ必要がありました。

 1946年、創業者アーサー・E・アンダーセンが死去します(満61歳)。この年、氏の意志を継いだアンダーセン会計事務所のパートナーは再びコンサルティングサービスを大きく動かし始めました。

 2月にペンシルヴァニア大学で一般公開されたコンピュータの原型モデルENIAC(エニアック)を使い、どの会計事務所よりも早くシステムコンサルティングの準備を進めたのがアンダーセンでした。その後、1950年代にはGEに世界初の商用コンピュータUNIVAC(ユニバック)を導入、1970年代には世界最大のシステムコンサルティング会社の地位を築きました。

 1950年代、60年代におけるアンダーセンのコンサルティングサービスは会社全体の売上の約20%を占めるに過ぎませんでしたが、1970年代には会計監査の頭打ちとコンサルティングの好調が顕著になり始めました。それは自然とそれまでの社内で当然視されていた会計監査部門の強力な地位を揺るがし、両者の間のパワーバランスは徐々に変化してきました。

 そして1985年にパートナー1人あたりの利益でコンサルティング部門が会計監査部門を凌ぐと、両者の立場が完全に逆転し(決して大袈裟ではなく)コンサルティング部門はそれまでの監査部門による圧政に反旗を翻しました。その行く末は1989年アンダーセン会計事務所のコンサルティング部門がアンダーセン・コンサルティングとして独立する形となりました。この年、会社の収益の約42%がコンサルティングによって生み出されていました。

 アンダーセン・コンサルティングが独立してしばらくすると、アンダーセン会計事務所は再び社内にコンサルティング部門を組織化します。それを知ったアンダーセン・コンサルティングとの対立は決定的になります。アンダーセン・コンサルティングは独立後も継続して本家の会計事務所に手数料を納めていましたが、手数料の支払い停止と社名からアンダーセンの冠を外すことを決めました。2000年アンダーセン・コンサルティングはアクセンチュアとして21世紀のスタートを切ることになりました。

 一方、会計事務所内に再組織された二代目コンサルティング部門は、2002年の会計事務所本体の消滅によりBig4の一角KPMGに吸収されます。二代目コンサルティング部門の行く末はこれで終わらず、KPMGから移った先で会社の破産(Chapter11)を迎え、2009年コンサルティング部門の立て直しを図っていたPWCに買収されました。

 20世紀始めに設立されたアーサー・アンダーセン会計事務所のコンサルティング部門は100年後、独立したコンサルティング会社(アクセンチュア)とかつてのライバル会社(プライス・ウォーターハウス)の中でそれぞれ生き続けています。

 アンダーセン会計事務所の歴史の概要は以上のようになっています。

 さて、ここからは細かな歴史を追っていきたいと思いますが、今回はアーサー・アンダーセン氏の少年期に少し触れて終わりにしたいと思います。

 アンダーセン氏を象徴する反逆児・自信家としての厳しい性格は少年時代の経験によって形成された部分もあると言われています。

アーサー・E・アンダーセンの子供時代の経験が彼の性格を形作った。アーサーは人をなかなか信じなかった。彼の同時代に一緒にいた人々は彼を、要求の強い厳格な人で、自分には厳しい長時間の仕事を目標として課したし、彼のもとで後年働くようになった会計士にも同じことを要求したと言っている。

『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』
S・E・スクワイヤ/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク
平野皓正 訳

 アーサー・アンダーセン氏は1885年にシカゴの西約90kmにある町プラノ(Plano)で8人兄弟の4番目として生まれました。プラノという町は当時人口2000人に満たない小さな町でした(2020年の人口は約1万人)。彼の両親はアーサーが生まれる3年前にノルウェーからアメリカに移住してきたばかりでした。夢を持ってアメリカに来た両親でしたが、アーサーが16歳の時に共に亡くなり彼は孤児になってしまいました。8人の子供達はばらばらになり、アーサーは父親が働いていたフレーザー・アンド・チャルマー社の鋳物工場でメールボーイとして働き生計を立てるようになります。昼間は働き、夜に夜間学校に通い勉強するという少年時代を過ごしたアーサー氏は、まじめに働くことの哲学を持っていたのかもしれません。

 チャルマー社では残業を苦とせず長時間働き仕事に全てを注いでいました。他人とはあまり付き合わない性格でしたが、これは彼が事務所を設立した後でも変わらなかったようです。チャルマー社では経理部長まで出世し、この頃から会計士の勉強を始めていました。そして会計士になる思いを押さえきれず、22歳になった1907年にチャルマー社をやめてプライス・ウォーターハウスに入社します。

 会計士の世界に足を踏み入れたアーサー氏のその後については次回以降で書きたいと思いますが、最後にアンダーセン一家がアメリカに渡った頃の移民の歴史を見ておきたいと思います。アーサー・アンダーセンがアメリカで生まれ、シカゴで会計事務所を始めたことはコンサルティングの歴史上とても重要なとこだと思います。その背景を抑えます。

南北戦争(1861年〜1865年)後の移民にはそれまでのドイツやアイルランドからの移民に加えて、新たにイギリスとスカンジナビアからの移民が加わった。1880年代には約525万人の移民がアメリカに渡っており、彼らはアメリカの工業発展と西部開拓を生活向上の機会と見て、家族単位で移住し、東部では比較的安定した熟練職人として、また中西部では土地所有農民として定住する者が多かった。彼らは後に「旧移民」と呼ばれて、文化的にも政治的にも成熟しておりアメリカ人となるにふさわしい移民とみなされた。

『アメリカの歴史』有賀夏紀・油井大三郎 編
など

 移民の歴史的解釈には上記のような解釈がありますが、ここにも書かれているように、1882年にノルウェーから移住したアンダーセン一家はスカンジナビアからの移民に当たります。しかしアンダーセン一家としての定住は成らず、記載されている歴史とは違った移民の人生をアーサー・アンダーセンは送りました。勤勉に働き、後に世界最大のシステムコンサルティング会社となる礎を築き、アメリカ人として成功した人生も一つの移民の歴史として存在しました。


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